新世界秩序への誘い(その6)-「テンプル騎士団」との関わり

 今回は「テンプル騎士団」と「新世界秩序」とのつながりを見て行きます。

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 話はヨーロッパ中世期まで進みます。ヨーロッパの年表より、10世紀頃にカソリック教会ローマ教皇の勢力は最盛期を迎えます。ローマ教皇は、西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に十字軍を派遣します。1096~1099年の第1回十字軍遠征以降、最後は1271~1272年の遠征ですが、この間約180年の間に計9回の十字軍遠征が試みられています。

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 第1回十字軍遠征の指揮官だったゴドフロワ・ブイヨンというフランス人が、エルサレムの地を征服してまもなくの1099年に「シオン修道会」を創設しました。この「シオン修道会」については、前回「聖杯伝説」との絡みで紹介しました。

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 ゴドフロワがこの「シオン修道会」を創設した理由は、キリストの時代から一族が守ってきた秘密が、自分が死んでそれが失われることを懸念したからでした。ゴドフロワは、その秘密を代々受け継がせるためにこの友愛組織をひそかに設立しました。

 やがて「シオン修道会」は、ソロモン王の神殿跡に建てられたヘロデ王の神殿の廃墟に、秘密の文書が隠されているという話を聞きつけます。

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 そして、廃墟から文書を取り出すために、武装集団を組織しました。これが9人の騎士からなる「キリストとソロモン神殿の“清貧騎士団”」というもので、「テンプル騎士団」と呼ばれます。今回の主役「テンプル騎士団」の登場です。1118年にエルサレムにおいて結成されました。

 「テンプル騎士団」は、聖地を守るために組織されたものと思われてきましたが、これは誤解で、巡礼者の保護は騎士団が任務を遂行するための隠れ蓑でした。聖地での本当の目的は、廃墟から文書を見付けることでした。


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 「テンプル騎士団」の旗に描かれている紋章は、縦横の長さが等しい十字です。縦横の長さの等しい十字は、均衡と調和の象徴です。そのように赤い十字の描かれた白い長衣を身に付けた騎士団員の絵は、誰もが目にしたことがあると思います。

 騎士団の入会儀式では、入会の意思の固さが問われ、秘密儀式が行われていました。すなわち、「テンプル騎士団」は、秘密結社であり、このことが「新世界秩序」の社会と共通する部分です。

 騎士団は、第2回十字軍遠征の際、聖地に留まりエルサレム王であるボールドワン2世に対して、巡礼路のキリスト教徒を警護する役を買って出ました。報酬を求めず、清貧の誓いを立てる一方で、騎士団は最低限の庇護を依頼し、神殿跡に居を定める許可を求めます。ボールドワン2世はそれを聞き入れ、騎士団は荒れ果てた寺院の中に質素な住まいを構えます。

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 「テンプル騎士団」は「シオン修道会」の探し求める文書が、廃墟の地下深くに埋もれていると考えていました。9人の騎士は、十年近くそこに暮らし、硬い岩の山を密かに掘り続けます。

 遂に、神殿からそれを掘り出した後、ヨーロッパへ渡った騎士団は、一夜にして不動の地位を得たと言われています。ローマ教皇インノケンティウヌ2世は、「テンプル騎士団」を「法そのもの」と規定して無限の権力を与え、宗教的にも政治的にも、王や高位聖職者の介入を一切受けない独立した自治組織を認めました。

 ヴァチカンのお墨付きを得て、「テンプル騎士団」は人数においても政治力においても破竹の勢いで成長し、十を超える国々に広大な地所を蓄えました。金銭的に破綻した王族に金を貸して利子を取るようになり、結果として近代の銀行業の基礎を築くとともに、富と影響力を更に拡大しました。

 「テンプル騎士団」について特筆すべき点として、騎士団が保有する資産、これは構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族から寄進された土地等を指しますが、これらの殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられます。この点が現代の「新世界秩序」の独自の国際的財務管理システムに繋がって行きます。

 14世紀になると、騎士団の力が肥大し過ぎたため、当時の教皇クレメンス5世は何らかの策を打ち出す腹を決めました。フランス国王フィリップ4世の手を借りた教皇は、「テンプル騎士団」を叩き潰し、財宝を奪って秘宝をヴァチカンの手中に納めるための策略を企てました。

 教皇は命令を記した極秘の教書を発行し、ヨーロッパ全土の軍勢に対して、1307年10月13日金曜日に一斉に開封するよう働きかけました。その内容は、「テンプル騎士団」が悪魔崇拝、同性愛嗜好、十字架の冒瀆、異常性行為など様々な穢らわしい行為によって、異端の罪を犯しているというものです。

 その日の内に、無数の騎士が捕えられて残忍な拷問を受け、やがて異端者として火炙りの刑に処せられました。パリでは54人の騎士団に対する火炙りの刑を命じました。騎士団の最高位にあったジャクリー・モレイが1314年3月8日に火炙りと串刺しの刑に処せられ、遂に「テンプル騎士団」は崩壊しました。この惨事は現代の文化にも余韻を残しており、13日の金曜日は今なお不吉だと考えられています。

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 騎士団の力の源と思われる秘密文書こそが、クレメンス5世の本当の標的だったんだが、結局それは手に入りませんでした。文書ははるか以前に、騎士団の陰の創設者であるシオン修道会の手に委ねられていて、その秘密主義のベールは、ヴァチカンの猛襲さえも寄せ付けませんでした。この文書は、今も変わらず調査や憶測の対象になっていて、これまでに何度か隠し場所が変えられたと言われています。現在はイギリスのどこかにあるという説が有力です。

 今回紹介した「テンプル騎士団」は、聖地エルサレムへの巡礼者の保護を隠れ蓑に、聖地で10年近くに亘り秘密の文書を探し続け、遂にこれを探し当てその勢力を拡大しました。一夜にして大金持ちになる、そんな夢物語りを実現させた訳ですが、皆さんどう思われますか。




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