新世界秩序への誘い(その7)-謎に包まれる「薔薇十字団」

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 前回紹介しましたように、1314年3月にジャクリー・モレイの火炙りと串刺しの刑で、「テンプル騎士団」は崩壊しました。

 「テンプル騎士団」の多くは、スコットランドやポルトガルやマルタ島へと逃げ延びました。その時逃げ延びた「テンプル騎士団」が再構築されて、各種の秘密結社が始まったと言われています。

 その内の1つの秘密結社が有名な「薔薇十字団」と呼ばれるものです。「薔薇十字団」は、古代神秘宗教信仰がキリスト教と結びついた真の宗教的集団と言われています。この理由は、そのころのある意味で形骸化し、新鮮さをなくしていた体制権力としてのキリスト教に対抗するだけの斬新な思想も含まれていたからでした。

 「薔薇十字団」が、「テンプル騎士団」とは独立した存在であったのかどうかは判っていません。しかし、何らかの理由でこれら2つのグループが生じ、後に1つになったことを示す証拠が残っています。

 「テンプル騎士団」が廃止された後、「薔薇十字団」は、オカルト的教えをヨーロッパ全土に広める原動力としての地位を築きました。

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「薔薇十字団」の存在と世に知らしめた文書が3冊残されています。
第1冊目が、1614年ドイツのカッセルで出版された「薔薇十字団の伝説」です。
第2冊目が、1615年に出版された「薔薇十字団の信条」です。
第3冊目が、1616年に出版された「化学の結婚」です。

 第1冊目の「薔薇十字団の伝説」の中で、人類を死や病といった苦しみから永遠に開放するために、つまり、不老不死の実現のために、ここ120年の間、世界各地で活動を続けてきた秘密の組織「薔薇十字団」という秘密結社の存在や、それを組織したという創始者クリスチャン・ローゼンクロイツの生涯が克明に記されています。

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 この時代は、下図のルターによる「プロテスタント運動」、一般大衆の覚醒による「農民一揆」、そしてペストや梅毒などの「疫病の流行」など、ヨーロッパは動乱の渦中にありました。特に、「薔薇十字団」文書が発表された当時のドイツは、30年戦争の最中でした。30年戦争は、旧来の教えであるカソリックと新教であるプロテスタントとの威信をかけた最後の宗教戦争であったのです。

 そうした時代を背景に、突如としてこれまでのどの価値観とも違う全く新しい教えが名前を挙げたわけです。そして、この革新思想に賛同し、自らもこの秘密組織の結社員となることを画策する人達も現れたのです。この薔薇十字団思想は、瞬く間にドイツ本国を離れて国際的にヨーロッパ各国に波及して行きました。

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「薔薇十字団」の創始者クリスチャン・ローゼンクロイツの半生は、次の様なものです。

 彼は16歳の時、賢者の導きにより東方の地アラビアへ旅立ち、各地を遍歴しました。そしてアラビアの賢者たちからオリエントの神秘学、医学や数学、物理、アラビア語を本格的に学び、彼はそこで実に短期間のうちにその奥義をマスターしたのでした。

 しばらくして、世界に遍満する真理を解き明かした奥義書「Mの書」を賢者の一人から授けられます。彼は、そこでアラビア語で書かれた「Mの書」をラテン語に翻訳したが、これは後に薔薇十字団の活動の中核的バイブルとなりました。

 それから何年もして、数え切れないほどの奥義書や不可思議な道具を携えて、故郷のドイツに帰り、一軒の家を建てると、そこに籠って神秘思想の研究生活を始めました。

 17世紀の初頭、クリスチャン・ローゼンクロイツは「薔薇十字団」という秘密結社を歴史の表舞台に登場されますが、たったの数年で幕を閉じます。しかし、この謎の結社の存在は世界に知れ渡りますが、今日に至るまで、その教祖クリスチャン・ローゼンクロイツと共に神秘のベールに覆われたままなのです。

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 「薔薇十字団」が消えると同時に、近代「フリーメイスン」が誕生していることから、「薔薇十字団」は「フリーメイスン」に姿を変えたと主張する者もいます。「フリーメイスン」の儀礼や綱領のなかに数えきれないほどの薔薇十字思想が含まれていることも大きな根拠の1つになっています。

 薔薇という言葉は、艶めかしく、秘密めいた香りがします。そのためか「薔薇十字団」という名前は何とも謎めいて見えますが、皆さんどう思われますか。





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