七十歳代黄金期への誘い(その6)-国債が生まれた経緯や歴史を辿る

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 国は国債を発行して市中から資金を集めます。これを戦争、災害対策など国の支払いに使います。その中には、国内での流通貨幣として使う部分もあります。市中に簡単に流通させうることが必要で、この貨幣は日銀に造らせ管理させています。

 国債は国の運営に絶対に必要なものであり、その取扱い額は数10兆円レベルで通常の投資等とは桁が違います。国債は金融機関等が多く保有しており、国の経済を動かす力もあります。

 そこで今回は、国債が生まれた経緯や歴史を追ってみてみます。

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古代ローマ帝国時代(BC736~AD294):戦費調達手段としての国債

 国債の起源はローマ帝国時代の軍事公債にさかのぼると言われています。ローマ帝国が軍事的に拡張するための戦費を調達する手段として活用されたようです。しかしながら、ローマ帝国の対外的膨張が一巡し、軍事的な勝利により得られた富が途絶え始めると、社会の成熟化で福祉国家化したことが反対に財政負担を重くし、ローマ帝国の衰退につながったと考えられています。

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15世紀中世:地中海貿易で活躍した富裕層の投資手段としての国債

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 中世になり地中海貿易が進展するなか、イタリアのベネチアやジェノバを中心とする都市群では、商人たちの富の蓄積が進みました。政府はこの富裕層を資金調達源として活用することを考えました。富裕層から発展した、投資家の代表格がメディチ家です。そのメディチ家は銀行を自ら設立して金融業を営んでいました。15世紀初頭、メディチ家のフィレンツェ支店は、国債など債券のディーラーとして君臨していました。



16世紀中世:スペイン覇権時代の投資手段としての国債

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 16世紀になると、スペインが覇権を握る時代がきました。当時、スペインは「太陽の沈まぬ国」と呼ばれていました。そのスペインが蓄財した富を管理していたのが、イタリア・ジェノバ共和国の銀行でした。スペインの繁栄の恩恵で、ジェノバも金融的な覇権を確立できたのです。そして、このジェノバで歴史的な低金利が示現しました。この金利低下の背景に、スペインが獲得した銀が流入して、カネ余りが進んだことがあります。

17世紀近世:イギリス国王の借入手段としての国債

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 イギリスでは、1688年から1689年にかけて名誉革命が起りました。名誉革命とは、イギリスの「市民革命」の名称で、国王の圧制に反抗した市民が、国王を追放して新しい王を迎えいれた政変です。ただ、血を流さないで行われたことから「名誉革命」呼ばれています。
名誉革命後の1692年に、恒久的な税金を担保とした国債が誕生しました。それまでイギリスでは、国王が私的に借り入れを行う私債という形で債券の発行がなされていました。国王の私的な借金なので、債務を支払えなくなるデフォルトは日常茶飯事でした。そのため、国王が借り入れる金利は、イタリアでの商人間の融通金利よりも高いことが通常でした。

18世紀近世:アメリカ鉄道ブームにおける取引手段としての国債

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 18世紀の半ばから19世紀にかけて産業革命が起りました。産業革命での蒸気機関の発達により、新たな輸送手段として登場したのが鉄道です。最初に鉄道が敷設されたのはイギリスです。その後、広大な国土を有する米国が新たな鉄道敷設の地として開拓されて行きました。米国における証券市場の発展は、鉄道ブームによってもたらされたと言っても過言ではありません。米国全土に鉄道が敷設され始めると、その資金調達のニーズから鉄道債や鉄道株式が大量に発行されることになりました。1849年には、カリフォルニアのゴールドラッシュがブームになり、西部開拓を背景に鉄道証券の上昇に弾みがつきました。

19世紀近代:日本での日清・日露戦争での戦費調達手段としての国債

 日本における最初の国債発行は、京浜間鉄道の建設を目的として明治3年(1870年)にロンドン金融市場で発行されました。ポンド建てのもので、この資金をもって、明治5年(1872年)に日本最初の鉄道が新橋、横浜間で敷設されることになりました。
日本最初の国債は関税や鉄道純益を担保として発行されましたが、金利は9%と当時のイギリスコンソル債や米国の鉄道債と比較しても極めて高い金利のものでした。イギリスのコンソル債とは、一定の金利を払う償還期限が明示されていない「永久債」のことで、3~5%で取引されていました。

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 日本の国債市場は、明治26年(1894年)をピークに低迷期を迎えます。日清・日露戦争により、戦費調達の目的から大量の国債が発行された結果、国債の供給増加から、需給バランスが崩れたことによります。



日露戦争では、高橋是清が資金調達に奔走した以下の話が有名です。

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 戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁であった高橋是清は、日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で、外貨調達に非常に苦しみました。当時、政府の戦費見積りは、4億5千万円でした。日清戦争で戦費の1/3が海外へ流失していたため、日露戦争では1億5千万円(4.5億÷3=1.5億)の外貨を調達しなければならない状況でした。

 外国公債の募集は、担保として関税収入を充てることとし、発行額1億円、期間10年据置きで最長45年、金利5%以下との条件で行われました。同盟国イギリスのロンドンで500万ポンドの外債発行、アメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの紹介でニューヨーク金融街から残額500万ポンドを調達できました。結局日本は1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め、総額1億3000万ポンド(約13億円弱)の外債公債を発行しました。この内、最初の4回、8,200万ポンド(約8億円)の起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行でした。

 日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かります。国の一般・特別会計によると、日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされています。

 以上見て来たように、国債は国レベルでの経済を大きく動かす力を持ちます。そのため、国債の扱いをどうするかは国の命運を左右します。国債を買い占めている黒田日銀総裁の出口戦略は我々日本国民にとって非常に重要な意味を持つと思いますが、皆さんどう思われますか。



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