七十歳代黄金期への誘い(その8)…日露戦争にみる日本海軍勝利の方程式

 日露戦争は、大日本帝国とロシア帝国との間で1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)9月に発生した戦争です。主戦場は、朝鮮半島・満州南部・日本海の3ケ所です。

 当時、ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用していました。当初は、ギリシャのあるバルカン半島での南下政策を取っていましたが、進出の矛先を満州、朝鮮半島を含めた極東地域に向けることになりました。

 一方、近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。そこで、日本とロシア両国の軍事衝突が発生する訳です。これが開戦のきっかけです。

 戦いは、朝鮮半島戦、旅順要塞攻囲戦、黄海海戦、奉天会戦と進み、最後が日本海海戦です。欧米各国における「ロシア有利」との予想を覆すだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった大勝利を経て講和へと繋がります。

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 この日本艦隊の勝利の方程式は、海軍中将秋山真之が作成した「七段構え対抗戦略」に沿って展開されたものです。この周到な戦い方は、現代においても十分通用するものと思い、今回はそれを紹介します。



 第1段…バルチック艦隊が日本近海に現われるや、すぐには主力決戦はせず、いち早く駆逐艦や艇隊といった足の速い小艦艇を繰り出して、その全力をもって敵主力を襲撃し、混乱せしめます。この点は武田信玄の戦法に酷似しています。

 第2段…その翌日、わが艦隊の全力をあげて敵艦隊に正攻撃を仕掛ける。戦いのヤマ場を迎えます。

 第3段と第5段…主力決戦が終わった日没後、再び駆逐・水雷という小艦艇を繰り出し、徹底的な魚雷戦を行う。これは正攻撃というより、奇襲というべき攻撃です。

 第4段と第6段…その翌日、わが艦隊の全力ではなく、その大部分をもって敵艦隊の残存勢力を鬱陵島付近からウラジオストック港外まで追い詰めて行きます。

 第7段…あらかじめウラジオストック港口に敷設しておく機雷沈設地域に追い込み、ことごとく爆沈させます。

 実際の決戦は7段を完全遂行することなく、3段程度で終わりを遂げますが、完膚なきまでにロシア海軍を叩き潰します。この時「敵前回頭」という凄い技を、時の海軍大将東郷平八郎が使い、大成果をあげました。

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 「敵前回頭」の詳細については、司馬遼太郎の「坂の上の雲(全8巻)」の文章をところどころ引用しながら紹介します。

 「本日天気晴朗なれども浪高し」。明治38年5月27日早朝、日本海の濠気の中にロシア帝国の威信をかけたバルチック大艦隊が遂にその姿を現わした。

 ロシアバルチック艦隊と日本海軍の戦力の差は明らかで、ロシアのバルチック艦隊が圧倒している。補足しますと、戦力的には、ロシアのバルチック艦隊が旗艦「スワロフ」をはじめ戦艦8隻、海防戦艦3隻に対し、日本海軍は旗艦「三笠」以下戦艦と呼ばれるものは4隻と、主力戦艦の数では半分以下でした。

 この様な日本海軍にとって不利な状況の下、図の様に、要するに、東郷平八郎は敵前でUターンをした。Uというよりもα運動という方が正確かも知れない。東郷は午後2時02分南下を開始し、さらに145°ぐらい左(東北東)へ曲がったのである。後続する各艦は、三笠が左折した同一地点にくると、よく訓練されたダンサーたちのような性格さで左へまがってゆく。

 それに対してロジェストウェンスキーの艦隊は、2本もしくは2本以上の矢の束になって北上している。その矢の束に対し、東郷は横一文字に遮断し、敵の頭をおさえようとしたのである。日本の海軍用語でいうところの「T字戦法」を東郷はとった。

 三笠以下の各艦がつぎつぎに回転しているあいだ、味方にとっては射撃が不可能にちかく、敵にとっては極端にいえば静止目標を撃つほどにたやすい。たとえ全艦が15ノットの速力で運動していても、全艦隊がこの運動を完了するのは15分はかかるのである。この15分間で敵は無数の砲弾を東郷の艦隊へ送りこむことができるはずであった。

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 東郷は風向きが敵の射撃に不利であること、敵は元来遠距離射撃に長じていないこと、波が高いためたださえ遠距離射撃に長じていない敵にとって高い命中率を得ることは困難であること、などをとっさに判断したに相違なかった。

 敵がはじめて火蓋を切ったのは午後2時8分であった。そのあと、敵の各艦が猛烈に撃ってきた。この最初の3, 4分のあいだに飛来した敵弾の数はすくなくとも300発以上であったかとおもう。

 この間三笠は応射しない。他の艦も「びっくりするほどの鮮やかな手際」の陣形運動をしずかにおこなっているのみで、応射はしなかった。陣形運動のために応射しようにもそれができなかったのである。

 旗艦三笠はぐるりとまわって新正面に艦首をむけたとき、三笠にとってバルチック艦隊の38隻が右舷の海にひろがったことになる。彼我の距離はわずか6,400mにすぎず、三笠以下が気が狂ったように急航するためにそれがみるみる縮まった様に思われた。

 運命の戦いで東郷平八郎が最初の射撃命令をくだしたのは午後2時10分である。右舷の大小の砲がいっせいに火を吐き、多くの砲弾がライン・ダンスのような攻撃のみごとさで同時に飛び出した。その反動で艦体が撓むかとおもわれるほど軋んだ。目標は敵の旗艦スワロフであった。ほどなく彼我の距離が5,000mになった。もはや接戦である。

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 東郷とその艦隊のスワロフへの砲弾の集中ぶりはものすごいものであった。砲戦を開始して以来、数次にわたる戦闘中、スワロフに命中した日本砲弾は数百発以上にのぼった。これからみれば、三笠が蒙った命中段数など比較にならなかった。戦艦オスラービアに火災がおこったのは三笠が射撃を開始してからわずか5分後の2時15分である。ついに東郷艦隊は彼我5,000m以内に踏み込んだ。この肉薄の状況は、秋山真之がかつて造語した「舷々相摩す」という形容に近づきつつあった。

 5,000m以内に入ると、東郷艦隊から発射される砲弾の命中率が飛躍的によくなった。オスラービア、スワロフ、アレクサンドル三世のいずれも艦体は火炎で包まれていた。

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 以上が海戦の描写の部分です。地図と比較して読み直すと、戦闘の様子がはっきりと現れてきますが、皆さん如何でしょうか。



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