ドイツの歴史を追う(その1)…欧州歴史の中心国ドイツの全貌

 本シリーズでは、これまで (1)都市消滅問題 (2) 日銀の国債買い占め問題  (3) 日本の借金問題 (4) 投資におけるレバレッジやヘッジの活用方法 (5) 投資家ジョージ・ソロスの投資戦略、などについて話を進めてきました。

 ソロスを追い掛けている際に、ソロスが14歳の時にナチス・ドイツの迫害に遭い、偽IDを発行して生き延びたという話が出て来ました。ナチス・ドイツと言えばかの悪名高きヒットラーの率いる政権のことですが、前シリーズの「新世界秩序への誘い」で登場した秘密結社フリーメイスンとの関わりもありそうです。ここで、一度きっちりとドイツに関連する事項を押さえる必要があると考えていたところです。

 また、ドイツについては、以前より下記の疑問を抱いていました。

(1) どうして、ヒットラー率いるナチス・ドイツが登場して来たのか?
(2) どうして、ドイツは非常にレベルの高い基礎技術を有しているのか?
(3) どうしてドイツで宗教改革が起こり、プロテスタントが生まれたのか?
(4) どうしてドイツはヨーロッパの主導権を握ったのか?

 そこで、個別の問題に入る前に、今回はまずドイツの歴史を簡単に通してまとめてみました。

 ドイツは、ヨーロッパの主要国の1つであり、人口は8,267万人(日本1億2700万人)、面積357千km2(日本378千km2)を有する国で、現在の欧州連合(EU)を主導する立場にあります。今回は、有史以降の代表的な出来事を下の歴史年表に従って紹介します。

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* ゲルマン民族の大移動開始(375年)

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 なぜゲルマン民族の大移動が始まったのか。それは375年、北アジアの遊牧騎馬民族であるフン族に押されてゲルマン人の一派であるゴート族が南下し、ローマ帝国領を脅かしたことが大移動の始まりとされています。

 その後、多数のゲルマニア出身の民族が南下をくり返しローマ帝国領に侵入しました。移動は侵略的であったり平和的に行われたりしました。移動の原因として他民族の圧迫や気候変動、それらに伴う経済構造の変化があげられています。

 この後すぐの395年にローマ帝国は東西に分かれ、さらに、476年に西ローマ帝国において西ローマ皇帝による支配体制が崩壊しました。フン族の侵攻を食い止めたのがローマの支配を受け入れて傭兵となっていたゲルマン人であったように、帝政末期の西ローマ帝国が実質的にはゲルマン系将軍によって支えられていた実情や、西ローマ帝国のローマ人がギリシャ人(東ローマ帝国)の支配から逃れるためにゲルマン人の力を借りて西方正帝を廃止した事情なども考慮すると、今日におけるヨーロッパ世界の成立におけるゲルマン人の大移動の意義は大きいと思われます。

* フランク王国の成立(486年)

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 フランク王国は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国です。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼしました。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれます。

 この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担いました。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖なるものとして区別するための儀式、すなわち「聖別」が行われました。これらのことから、教皇による聖別は、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たしました。

* フランク王国の分割(843年)

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 フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝と言う二つの王朝によって統治されました。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外でした。
 
 ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割されました。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成しました。このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築しました。

* 神聖ローマ帝国の繁栄(962年~1806年)

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 神聖ローマ帝国は、962年に東フランク王オットー1世がローマ教皇に載冠されたことに始まります。神聖の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世が、ドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れます。東フランク王国を継いだ神聖ローマ帝国ですが、元々彼等は、古代ローマ帝国やカール大帝のフランク王国の継承国を自称していました。フランク王国は西ローマ帝国の継承国を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」の名は、西ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国であるということを標榜していました。そして、帝位に相応しいと評価を得た者が、ローマ教皇によりローマで載冠し、ローマ皇帝に即位したのです。

 また、古代ローマ帝国の王統な継承国としては、15世紀中期まで東ローマ帝国(中世ローマ帝国)が存続していました。当然のことながら、東ローマ帝国側は、神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」あることを認めず、その君主がローマ皇帝であることも承認しませんでした。(二帝問題)。

 一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことをローマ帝国であると認めず、「コンスタンティノーブルの皇帝」「ギリシャ人の王」等と呼ぶ様になっていました。

* プロイセン王国の繁栄(1701年~1918年)

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 シュヴァーベンにあるホーエンツォレルン城一帯から台頭したプロイセン領邦君主ホーエンツォレルン家は、17世紀半ばからオランダと共に勢力を拡大し、1701年にはプロイセン王国を形成しました。

 1789年に起きたフランス革命の動乱は全ヨーロッパに波及し、ドイツも1804年のナポレオンの侵略を免れませんでした。対仏大同盟がナポレオンを破り、ドイツは帝国代表者会議主要決議の枠内で国家統一を志向するようになりました。ホーエンツォレルン家とオーストリアのハプスブルク家はドイツ統一の役割を争いましたが、その中で、ホーエンツォレルン家は対米貿易とメリノ種羊毛の量産に成功しました。一方、ハプスブルク家は地中海へのアクセスを維持するためフランスに接近して行きました。

* ドイツ帝国の誕生(1871年~1918年)

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 1871年プロイセン国王ヴィルヘルム1世を皇帝とする「ドイツ帝国」が成立しました。これには、政治・外交的にプロイセンの勝利を導いた、鉄血宰相ビスマルクが大きく貢献しています。ドイツ系オーストリアを除くドイツ帝国を創建し、ベルリンを首都としました。

 ドイツ帝国成立に至るまでにビスマルクにより三度の戦争に勝利しています。まず最初の戦争は、1864年のデンマークとの戦争です(デンマーク戦争)。二度目は1866年のオーストリアとの戦争です(独墺戦争)。そして三度目は1870年に起きたフランスとの戦争です(独仏戦争)。独仏戦争は、スペインでの革命によって生じた王位継承問題に端を発していました。ビスマルクは鉄血宰相と呼ばれていますが、当時、約40の国々が割拠するドイツでは、統一を行うには「鉄と血によって」、すなわち軍事力でもってするしかなかったのです。

* 第1次世界大戦(1914年~1918年)

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 帝国主義諸国のうち、ドイツは19世紀の末、オーストリア・イタリアと三国同盟を結成し、ベルリンからバクダッドにいたる地域を確保しようとする3B政策を取りました。これに対抗してイギリスは、カイロからカルカッタにいたる地域の利権を維持する3C政策をとり、フランス・ロシアと三国協商を成立させました。

 このころ、バルカン半島では、トルコの支配がおとろえ、独立をめざす諸民族が対立し、強国も勢力の拡大をはかりました。この地域のスラブ人の統合をめざすセルビアは、オーストリアのボスニア併合に反対しましたが、ドイツがオーストリアを支援し、ロシアはセルビアを支援したので、強国の間の対立が深まりました。

 1914年、セルビア人青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺がきっかけとなって、セルビア側のロシア・イギリス・フランスなどの連合国と、オーストリア側のドイツ・トルコなどの同盟国とのあいだで、第一次世界大戦が始まりました。イタリアは1915年に三国同盟を破棄して連合国側につき、中国も連合国側につきました。この時、日本は、日英同盟により参戦し、ドイツが支配していた青島をふくむ山東半島や、ドイツ領南洋諸島も占領しました。

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 戦争は、帝国主義諸国と植民地のほとんどを巻き込んで、全世界に広がりました。戦争は長引き、飛行機・戦車・潜水艦などの新兵器や毒ガスも用いられました。ヨーロッパ諸国は、戦争に全国民を協力させるため、国内では、労働者の権利を認め、社会福祉の改善などをはかり、国外では、アジアなどの植民地の人々に戦後の独立を約束しました。

 アメリカは、初めは参戦せず、戦争に必要な物資を連合国に輸出し、多額の資金援助も行いました。やがてドイツの潜水艦が中立国の船も無差別に攻撃するようになったのをきっかけに、1917年に連合国側に加わりました。

 アメリカの参戦後、同盟国が次々と降伏して不利になったドイツは、1918年、皇帝が退位して共和国ができ、降伏しました。こうして、4年にわたる大戦は、約900万人の死者と約2000万人の負傷者を出して終わりました。

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 1919年、講和会議がパリで開かれました。会議で結ばれたベルサイユ条約により、ドイツは、すべての植民地と本国の一部を失い、巨額の賠償金を支払うことになりました。講和会議では、東欧諸民族の独立が認められましたが、アジア・アフリカでは認められず、ドイツの植民地は、戦勝国の委任統治や植民地にされました。日本は、中国の山東省でのドイツの利権とドイツ領南洋諸島の国際連盟からの委任統治権を獲得しました。

 1920年、平和を守る世界最初の国際機構として国際連盟がつくられました。しかし、アメリカは議会の反対で参加せず、ドイツやソ連の参加認められなかったので、強力な組織とはなりませんでした。

* ナチス・ドイツの誕生(1933年~1945年)

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 経済の破綻を背景に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が台頭しました。アドルフ・ヒトラーの指導下で、極右的民族主義、差別ともいえる人種政策、さらに拡張的な領土政策を唱えました。1933年ヒトラーが首相に任命されると、ナチ党は国内の政敵を次々に制圧し、ナチ党一党独裁体制を築き上げました(ナチス・ドイツ)。

* 第2次世界大戦(1939年~1945年)

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 ヒトラーはヴェルサイユ条約の軍備制限を破棄し、オーストリアやチェコスロバキアの領土を獲得して行きました(ミュンヘン会談)。次第に英仏との緊張関係が高まりました。ポーランド回廊を寸断すべく、ドイツは1939年9月ポーランドへ侵攻しました。これが英仏の宣戦を招き、第二次世界大戦が始まりました。一時はフランスを打倒してヴィシー政権を樹立し、ヨーロッパの大半を勢力下に置きました。しかし独ソ戦で形勢を崩し、連合国軍の侵攻によりドイツは無条件降伏しました。そしてニュルンベルク裁判がナチスを断罪しました。

 ドイツ史を振り返ってみると、世界の変化を象徴しているような事例に事欠かないと言われますが、皆さんどう思われますか。



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