ドイツの歴史を追う(その3)…第一次世界大戦における陰謀説

 ドイツは下図の年表からも明らかな様に、二度の世界大戦の主役となり、そして二度とも戦争に負けています。しかし、いずれも敗戦後奇跡の復活を遂げてきました。このドイツの強さは一体何なのでしょうか。今回のブログでは、特に第一次世界大戦のきっかけに焦点を当て、ドイツの強さを探ってみたいと思います。

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 ビスマルクの「鉄と血」に象徴されるように、19世紀後半のドイツは「製鉄の炎」によって急成長した新興国でした。1870年頃の人口はおよそ3,800万人でフランスとほぼ同規模でしたが、第一次世界大戦開始前半の1913年には、6,500万人に膨らんでいました。同時期には、BMWで知られるバイエル社、電子・電信機器で知られるシーメンス社、鉄鋼で知られるクルップ社などの企業コンツェルンが形成されました。これらは現代ドイツにもその名を残す大企業として知られます。この煮えたぎる「ヒト、モノ、カネ」は軍事という鋳型に注ぎ込まれました。

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 1913年に兵数は1871年と比べて2倍以上の88万人を数え、1905年から1913年の国民1人あたり軍事支出も約2倍に膨れあがりました。1890年にビスマルクを罷免した若き皇帝ヴィルヘルム二世は、この国家伸長と軍備増強を背景に、対外膨張政策の野心を燃やしていました。これがまず英仏露との対立の火種になりました。この火種が、「火薬庫」と呼ばれたバルカン半島に着火したとき、火の手は欧州そして世界へと広がり、のちに「第一次世界大戦」と呼ばれる未曾有の大戦争となりました。


 帝国主義諸国のうち、ドイツは19世紀の末、オーストリア・イタリアと三国同盟を結成し、ベルリンからバクダッドにいたる地域を確保しようとする3B政策を取りました。これに対抗してイギリスは、カイロからカルカッタにいたる地域の利権を維持する3C政策をとり、フランス・ロシアと三国協商を成立させました。

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 このころ、バルカン半島では、トルコの支配がおとろえ、独立をめざす諸民族が対立し、強国も勢力の拡大をはかりました。この地域のスラブ人の統合をめざすセルビアは、オーストリアのボスニア併合に反対しましたが、ドイツがオーストリアを支援し、ロシアはセルビアを支援したので、強国の間の対立が深まりました。

 1914年、セルビア人青年によるオーストリア皇太子夫妻の暗殺がきっかけとなって、セルビア側のロシア・イギリス・フランスなどの連合国と、オーストリア側のドイツ・トルコなどの同盟国とのあいだで、第一次世界大戦が始まりました。イタリアは1915年に三国同盟を破棄して連合国側につき、中国も連合国側につきました。この時、日本は、日英同盟により参戦し、ドイツが支配していた青島をふくむ山東半島や、ドイツ領南洋諸島も占領しました。

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 戦争は、帝国主義諸国と植民地のほとんどを巻き込んで、全世界に広がりました。戦争は長引き、飛行機・戦車・潜水艦などの新兵器や毒ガスも用いられました。ヨーロッパ諸国は、戦争に全国民を協力させるため、国内では、労働者の権利を認め、社会福祉の改善などをはかり、国外では、アジアなどの植民地の人々に戦後の独立を約束しました。

 アメリカは、初めは参戦せず、戦争に必要な物資を連合国に輸出し、多額の資金援助も行いました。やがてドイツの潜水艦が中立国の船も無差別に攻撃するようになったのをきっかけに、1917年に連合国側に加わりました。

 アメリカの参戦後、同盟国が次々と降伏して不利になったドイツは、1918年、皇帝が退位して共和国ができ、降伏しました。こうして、4年にわたる大戦は、約900万人の死者と約2000万人の負傷者を出して終わりました。

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 1919年、講和会議がパリで開かれました。会議で結ばれたベルサイユ条約により、ドイツは、すべての植民地と本国の一部を失い、巨額の賠償金を支払うことになりました。講和会議では、東欧諸民族の独立が認められましたが、アジア・アフリカでは認められず、ドイツの植民地は、戦勝国の委任統治や植民地にされました。日本は、中国の山東省でのドイツの利権とドイツ領南洋諸島の国際連盟からの委任統治権を獲得しました。

 1920年、平和を守る世界最初の国際機構として国際連盟がつくられました。しかし、アメリカは議会の反対で参加せず、ドイツやソ連の参加認められなかったので、強力な組織とはなりませんでした。
 
 さて、第一次世界大戦の表向きの争いは上記の如くですが、ここからは陰謀の世界です。

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 ヨーロッパとアメリカの銀行家達は、ドイツとアングロ-アメリカンの間の緊張を高めることによって、ヨーロッパの経済的、そして文化的支配の確立を目指す道を見付けようとしていました。通常、第1次世界大戦の引火点は、1915年5月7日の英国船ルスタニア号のドイツ潜水艦による魚雷爆破によるとされています。多くの人々は、このルスタニア号の爆破作戦は陰謀的なものであり、第一次世界大戦へと向かわせるべく、如何に技巧的に準備されていたかを知りません。

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 イギリスの情報部は、1914年12月にドイツの戦争暗号体系をすでに見破っていました。それにより、英国のウィンストンチャーチル提督は、全てのドイツのUボートがイギリス海峡にあるということを知ったのです。ルスタニア号は、海峡を通過してやって来るエスコート部隊の到着を待つために、速度を落としていました。その時、チャーチルはエスコート部隊に、港に戻る様に命令しました。ルスタニア号は、戦域の中を一人きりで、のろのろと進行せざるを得なくなりました。そのルスタニア号を目がけて、ドイツ潜水艦から魚雷が発射されました。後年、残されていたチャーチルの個人的な手紙が、チャーチルがルスタニア号を沈めようと意図していたことを示しています。戦争を始めるために企てられた、入念に工作された出来事の中で、およそ1,200人が命を落としました。ドイツは、敵対しているイギリスによって使用されると思われていた武器を、ルスタニア号がアメリカから運んでいたと主張しました。1993年後にこの主張は真実であることが証明されました。

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 しかし、当初は、アメリカに設置されていた国際関係評議会やヨーロッパの新聞サービスを牛耳っていたロスチャイルドが、コントロールしていた英語版新聞を通して、野蛮なドイツが武器を持たないイギリス運搬船を攻撃したとする主張を掲載しました。ドイツ政府は、船舶がその戦域を航行する場合には、攻撃を受ける危険性があることを、事前にニューヨークの新聞に掲載していたにも関わらず、ロスチャイルドはドイツの攻撃だと主張したのです。




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 第1次世界大戦は、20世紀のイルミナチ資本家の総合基本計画によって終結しました。彼らは、共産主義は資本主義がそれを支える場合のみ続くことを知っていました。そしてまた、資本家は、ベルサイユ条約の過酷な鎖が、ドイツ内から登場する究極の指導者によって壊されることを知っていました。問題の発生、反応、対策の第1ラウンドの歓迎です。



 この様に、第1次世界大戦の両側で、陰謀結社イルミナチが如何に設立されたを見て来ました。中でも銀行家の力が大きく作用していましたが、皆さんはどう思われますか。



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