ドイツの歴史を追う(その5)…ユダヤ人種の殲滅を国是としたナチスドイツ

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 1933年から1945年、ナチス支配下のヨーロッパで想像を絶するユダヤ人の大量殺戮がくり広げられました。これをホロコーストと言います。この様なホロコーストが行われた背景は、一体何なのか、それはヨーロッパにおけるユダヤ人憎悪と大きく関係しているようです。


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 ユダヤ教徒は教義上イエス・キリストをメシア(救世主)と認めません。また、イエスは十戒の3番目にある「神の名を誤って使ってはいけない」という掟に背いて人々に説教したということで、イエス・キリストはユダヤ教徒達から弾劾され、磔になりました。

ユダヤ人によって十字架にかけれたという俗説が古代から中世にかけて流布し、ユダヤ人は「神殺し」(イエス殺し)の汚名を着せられました。これが原因で、ユダヤ人はヨーロッパ社会で長い間迫害を受けて来たものと考えられます。

 キリスト教世界では、ユダヤ人は長い間、敵、犯罪者、寄生虫と見做され、しばしば暴力や社会的差別にそらされてきました。19世紀になってからは、市民社会の一員として、ユダヤ教徒を解放する措置がとられ、同化が進みましたが、並行して反発する動きも起きました。

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 ドイツのナチス党は、第一次世界大戦の敗北を、国内のユダヤ人の「裏切り」のせいにして、ユダヤ人はドイツを崩壊させる邪悪な病原体だと喧伝しました。ヒトラーのユダヤ人憎悪は、ユダヤ人が世界支配を企んでいるという陰謀論にも影響を受けていました。ヒトラーにとって、ユダヤ人は宗教共同体ではなく、もはや改宗しても同化できない「人種」だったのです。ナチの人種主義は、自らを最上位の「アーリア人」と捉え、ユダヤ人やロマを「劣等人種」と見做しました。完全な「アーリア人種」の質を劣化させるものとして、障害者の存在もヒトラーには好ましくないものでした。アーリア人とは、現存する近縁の民族はいずれもアーリア人の末裔であすので、従って、自らを「アーリア人」と捉えると、最上位の人種となることを意味します。

ユダヤ差別法と迫害の激化

 ナチス党が政権を獲得すると、種々の立法によって、ユダヤ人差別が生活のあらゆる面に浸透して行きました。1933年4月の「職業官吏再建法」では、公務員職からユダヤ人が排除されました。1935年9月の「ニュルンベルク人種法」は、ユダヤ人とドイツ人の結婚を禁止し、ユダヤ人から市民権を剥奪しました。

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 1938年11月9日には、ユダヤ教会堂や商店への一斉襲撃が行われました。砕け散った窓ガラスの輝きから「水晶の夜」と呼ばれたこの破壊の後、ユダヤ人の全経済活動が禁止されることになります。


ユダヤ人国外移住政策の展開

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 ユダヤ人弾圧に際して、当初目論まれていたのは、国外追放でした。ナチ党は「民族ドイツ人」(ドイツ国籍を持たない国外のドイツ系住民)を帰還させようと試みますが、そのための土地を空けるには、ユダヤ人が出て行く必要がありました。これはナチの言葉で「民族の耕地整理」呼ばれました。1940年夏のフランスに対する勝利後には、ユダヤ人をマダガスカル島に移住させる案が浮上しましたが、実行に移されることはありませんでした。

 1940年の7月から8月にかけて、リトアニアのカウナス領事館に赴任していた杉原千畝(チクネ)は、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等の欧州地区から逃れてきた難民たちの窮状に同情し、外務省からの訓令に反して、大量のビザ(通過査証)を発給しました。およそ6,000人にのぼる避難民を救ったことで知られています。その避難民の多くがユダヤ系でした。

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 ドイツが東方にその勢力を拡大するにつれ、支配下に抱えるユダヤ人は増え続けましたが、彼らの追放先については、依然として目途が立ちませんでした。そのため、占領下ポーランドのユダヤ人は、「ゲットー」への集住を強いられました。そこでは、飢餓や疫病が蔓延し、生活環境は悪化の一途を辿りました。ゲットーとは、ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区のことです。

 1941年6月、ドイツ軍のソ連侵攻とともに、親衛隊長の行動部隊が、射殺によるユダヤ人殺戮を開始しました。「ユダヤ人」問題を殺害という形で「解決」しようとする事実上のホロコーストの始まりです。開始から半年で少なくとも50万人が射殺されました。それに伴う現地住民の積極的な関与も指摘されています。その動機としては、反ユダヤ感情だけではなく、ユダヤ人財産への関心も無視できません。

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 射殺という方法は、殺害できる人数が限られることや、実行者の精神的負担が大きいことから、次第に他の方法が提案されるようになりました。ゲットー政策の破綻の末、1941年12月、ヘウムノに最初の絶滅収容所が開設され、ガス・トラックが配置されました。絶滅収容所は、強制収容所とは異なり、人間を殺害することのみを目的とした施設です。さらに、「ラインハルト作戦」の名の下、ベウジュッツ、ソビブル、トレブリンと3つの絶滅収容所が建設されました。これらの収容所では、ガス室が導入され、推定で約170万人のユダヤ人が殺されました。マイダネクとアウシャビッツは強制収容所と絶滅収容所の機能を兼ね、合わせて六つの絶滅収容所が稼働しました。

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 「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクは、ドイツ占領下のオランダ・アムステルダムが舞台となりました。国家社会主義ドイツ労働者党によるユダヤ人狩りのホロコーストを避けるために、咳も出せないほど音に敏感だった隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を活写したものです。アンネの日記は、ナチス・ドイツのゲシュタポに捕まるまでの1942年6月12日から1944年8月1日までのおよそ2年間に及びました。


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 オスカー・シンドラーは、ドイツ人の実業家で、ドイツ軍の厨房用品を製造して急激な成長を遂げました。第二次世界大戦中、1945年1月ドイツにより強制収容所に収容されていたユダヤ人のうち、自身の工場で雇用していた1,200人を虐殺から救いました。




 「ユダヤ人問題の最終解決」は段階的に進行し、紆余曲折を辿りながら、ガス室での大量殺害に行き着きました。ホロコーストには、ヨーロッパ地域のユダヤ人のほとんどが巻き込まれ、およそ600万人のユダヤ人が殺害されました。ドイツの一般市民や国際社会はホロコーストについて、どの程度認識していたのかという問題も問われています。絶滅収容所の存在は完全に秘匿できることではありませんので、多くの人々は、なぜ認識しようとしなかったのか、当局が主導する大量虐殺は途方もない出来事で、認識の範疇を超えていたのか、あるいはユダヤ人の運命は優先事項ではなかったのでしょうか。

 ホロコーストがナチス体制下での核心的出来事として焦点になったのは、1990年代になってからのことだと言われていますが、皆さんどう思われますか。



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