七十歳代黄金期への誘い(その25)…ベルリンの壁崩壊への苦難の道

 私の英会話の先生バーンはドイツ出身です。ドイツの大学を卒業してアメリカに渡り、ロスアンゼルスで都市開発会社に就職したそうです。7年程勤めた後、1989年に来日しました。以降英会講師としてYMCAに勤め現在に至っています。

 今回、ドイツの歴史を確認できる最後のチャンスと思い、色々と質問をしてみることにしました。下記は私自身がドイツの歴史で大きなイベントと思う10個ですが、バーン先生はどのイベントを取り上げるのか興味津々でした。

(1) ゲルマン民族の大移動(375年)
(2) フランク王国の成立(486年)
(3) フランク王国の3分割(843年)
(4) 神聖ローマ帝国(962年~1806年)
(5) プロイセン王国(1701年~1918年)
(6) ドイツ帝国統一(1871年~1918年)
(7) 第一次世界大戦(1914年~1918年)
(8) ナチスドイツのヒトラー政権(1935年~1945年)
(9) 第二次世界大戦(1939年~1945年)
(10) 東西ドイツの統一(1990年)

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 バーン先生の答えは、即1990年の東西ドイツの統一でした。その理由は、バーン先生の家族は現在ドイツのブレーメンに住んでいますが、当時の西ドイツにあたります。一方、バーン先生のお父さんの両親は、当時東ドイツに住んでいました。この様な状況から、バーン先生の家族にとっては、1990年の東西ドイツを分断していた壁の崩壊は非常に大きな出来事だったとのことです。

 そこで、今回は、バーン先生との会話で知り得たことを交えながら、東西ドイツ統一前後の動きを詳細に追ってみました。特に、旧ドイツの首都ベルリンの動向は大変であったとことが分りました。現在、ドイツ人の国民感情として、ロシアを嫌い、アメリカに恩義を感じているところがあります。この辺の事情も東西ドイツ統一と大きな関連がある様です。

第一期  米国マーシャルプランの発表(1947年)とベルリン封鎖(1948年)

 第二次世界大戦(1939年~1945年)でのドイツ敗戦に伴い行われた1945年2月のヤルタ会談、同年7月のポツダム会談の合意に基づき、米英仏ソの4ケ国による連合国管理理事会の下で、ドイツは四つの占領地区に分割されました。各国がそれぞれ占領行政を担当しました。さらにベルリンは、ソ連占領地区内に位置していましたが、その重要性から、やはり4ケ国に分割占領されることになりました。

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 西欧の再建のため、1947年6月25日、国務長官マーシャルの演説で発表された欧州復興計画では、アメリカが西欧地域統合、経済統合の原点となりました。西欧の工業生産を復活させるには、当時の燃料の主流であつた石炭の生産、並びに鉄鋼業の復興が必要であることを力説しました。欧州復興計画では、ドイツの占領政策を転換させ、西側占領地区の経済復興を進め、ついには西側占領地域のみで国家としての主権回復を行うことにしました。


 これを受け、ソ連は、ベルリンから西ドイツへ通じる鉄道を遮断して対立しました。これが俗に言う「ベルリン封鎖」です。これに対し、米英両政府は、空からの物資補給を決断、6月26日に最初の空輸機が飛びました。1949年5月まで11ケ月間続く「ベルリン空輸」の始まりです。約28万回の空輸で、およそ230万トンの食糧・物資が運ばれたと言われています。このベルリン危機は、第二次世界大戦で高められていたドイツ人の反共・反ソ感情を決定的にする一方、空輸を通じて「自由世界」の擁護者としてのアメリカ像が流布し、ドイツ人の親米感情を高めることになりました。

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 この後、1949年~1990年の41年の長い間、西ドイツ連邦共和国と東ドイツ民主共和国に分かれることになります。

第二期 ベルリンの壁の設置(1961年)

 ベルリンは元々1つの都市であったため、分割占領後も東西間の往来は可能で、地下鉄や道路網は一体として機能しており、多くの東西ベルリン市民が通勤などのために、東西間を往来していました。一方、鉄道や道路で西ベルリンから西ドイツに出国するには、東ドイツ当局の検問がありましたが、ドイツ・ルフトハンザ航空は就航できず、米・英・仏の航空会社しか運航できなかったものの、空路は自由に往来できたため、西ベルリンに入れば空路れば空路での西ドイツへの移動は簡単でした。西側への移住者は若者や教育水準の高い者、技能を有する者が多く、東ドイツにとっては大きな損失となりました。

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 東ドイツ政府は、多数の市民が西側に逃亡して人材が流出し、経済が崩壊することを防ぐために東西間を遮断する壁の建設を決定しました。そして、1961年8月から、東ドイツは東西ベルリンの交通を遮断し始めました。ベルリンの壁といっても、最初から堅固なコンクリートの壁が建設された訳ではなく、初期には有刺鉄線で交通が遮断されました。そのため、当初は比較的に越境することも可能で、多くの市民が東ベルリンを脱出しましたし、東ドイツの警備兵のなかにも西ベルリンへ逃れるものがありました。次第に逃亡を防ぐための警備が厳格化され、コンクリート製の堅固な壁と逃亡防止のための監視施設が建設されるようになりました。これにより、東ドイツ市民には、西側への脱出の手段が多くなりました。

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第三期 ベルリンの壁の崩壊(1989年)と東西ドイツの統一(1990年)

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 1985年にソ連の新しい指導者としてゴルバチョフが共産党書記長に就任したことによって、ソ連と東側陣営内の多くの国では、経済改革や政治的な自由化が進み始めました。ソ連でペレストロイカ(再構築)とグラスノチス(情報公開)のスローガンの下で改革が進展し始めると、ハンガリーやポーランドでは先行して経済システムの改革や政治面での変化がはっきりと見られるようになりました。ハンガリーでは複数政党制が導入され、1989年6月には遂にポーランドでは非共産党系の政権が誕生することとなりました。


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 東ドイツも東西ドイツ関係の改善は進み、1987年にはホーネッカーの西ドイツ訪問が実現しました。しかし、ホーネッカーら東ドイツの指導部による東ドイツの社会主義体制の維持は続きます。このため、東ドイツの状況に不満を抱いた多くの市民が、西ドイツへの脱出を望みました。1961年のベルリンの壁の建設以来、東ドイツから西ドイツへの脱出は壁によって物理的に妨げられていましたが、隣接する東欧諸国で政治的な自由化が進展し、1889年5月にハンガリーがオーストリア国境の鉄条網の撤去を開始すると、東ドイツ市民は比較的容易に入国できた東欧諸国を経由して、西側への脱出を図ろうとしました。こうして、多くの東ドイツ市民がハンガリーやチェコを経由して西ドイツに脱出しましたが、これは東ドイツにとっては大きな打撃であり、政府はチェコスロバキアとの国境を封鎖しました。

 東ドイツ内では政府への不満がライプチヒを中心とした市民デモで表明されました。このデモは、次第に大規模化し、全国に拡大し、体制の改革を求める声が大きくなりました。1989年には、市民による抗議デモはますます拡大し、ソ連からも支援を得られなくなり、政府内でも孤立したホーネッカーは解任されました。後任にはエゴン・クレンツが就任しましたが、体制内での権力の移行を改革では納得しない市民の声はさらに大きくなり、市民のデモはさらに拡大しました。11月9日夜の記者会見で出国規制緩和が発表されると、市民は国境に殺到し、その圧力を受けベルリンの壁の検問所は深夜に解放され、自由通行が可能となりました。これが「ベルリンの壁の崩壊」です。

 1990年には実現したドイツ統一は、東西ドイツの対等な統一ではなく、西ドイツによる東ドイツの吸収合併です。1949年から存在している連邦共和国がそのまま拡大したのです。ベルリンの壁崩壊の過程では、東ドイツの市民運動が大きな役割を果たしましたが、統一に向かう政治過程のなかでは、これらの市民運動が望んだ新憲法の制定や東ドイツ社会の肯定的な側面を新しい統一ドイツの中で生かす試みはほとんどありませんでした。

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 同一民族でありながら、思想主義の異なる2つの国に分断された東西ドイツ、この2つの国の再統合がいかに難しいかの実例です。現在、北朝鮮と韓国の南北統一が色々と表沙汰になっていますが、ドイツの事情を眺めると、そう簡単にはいかないと思いますが、皆さんどう思われますか。



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