失敗の本質(その9)…レイテ海戦に学ぶ教訓

 レイテ海戦は、世界の海戦史上でも特筆すべき最大級の規模のものでした。先頭は、東西600カイリ、南北200カイリという日本全土の1.4倍に相当する広大な海域において、昭和19年10月22日~26日まで4昼夜にわたって繰り広げられました。さらに、日本側では4つの艦隊が別々の海域で時を同じくして戦闘に参加し、その艦隊総勢力は、戦艦9(大和、武蔵を含む)、空母4、重巡洋艦13, 軽巡洋艦6, 駆逐艦31の総計63隻にのぼりました。これは当時の連合艦隊艦艇の8割に相当するものであり、日本海軍が総力を結集して戦った事実上の最後の決戦となりました。これに対して比島を奪回して戦争の雌雄を決しようとする米軍側の投入戦力は、軍艦だけで約170隻、上陸用艦船を含めると900隻に近く、まさに「史上最大の海戦、そしておそらくは世界最大の大艦隊決戦でした」。

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 この作戦の目的は、本土と南方との間の資源供給路を確保するために、その連絡圏であるフィリピンへの米軍進攻を阻止することでした。もし、フィリピンが米軍の手に落ちれば、南方からの石油その他の戦略物資は輸送不可能になります。また、台湾、沖縄への進攻も時間の問題となり、それに続いて本土上陸も短時間のうちに現実のものとなります。そうなれば、とくに海軍はまったく動きがとれない張子の虎になってしまいます。フィリピンに米軍を上陸させることは日本本土の生死を決定することになります。したがって米軍の企図を阻止するためには、連合艦隊をすり潰してもやむをえないというのが大本営の決意でした。

 日本海軍は、結局この海戦によって壊滅的な損失をこうむり、以降、戦闘艦隊としての海軍はもはや存在しなくなりました。また、日本本土と南方の資源地帯とをむすぶ補給線が断たれることになりました。

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 この海戦を特徴づけているもう1つの点は、攻撃主力の栗田艦隊(第一遊撃部隊)が、最終目的地点であるレイテ湾突入を目前にして反転してしまったことです。戦後これが栗田艦隊の「謎の反転」として、その是非について多くの議論がなされたことは周知のとおりです。この問題を考えるにあたっては、指揮官個人の資質や責任という点もさることながら、その作戦計画、統帥、戦闘経過に露わにされた日本海軍の持つ組織的な体質とその特性にこそ注目する必要があるものと思われます。

サイパン島陥落後

昭和19年7月9日

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 同日サイパン島が、日米双方に多大な犠牲をもたらしたうえで、陥落しました。これは「絶対国防圏」の崩壊を意味しました。




昭和19年7月18日~20日

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 日本軍は最後の決戦場をフィリピン、台湾および南西諸島(琉球)、北東方面(千島、樺太、北海道)のいずれかの地域に求めることを検討しました。そして、大本営は、陸海合同研究を実施し、乾坤一擲の決戦構想を決定しました。それは、「本年後期米軍主力の進攻に対し決戦を指導しその企図を破摧」するため、「決戦の時機を概ね8月以降と予期」し、「敵の決戦方面来攻にあたっては空海陸の戦力を極度に集中し、敵空母やおよび輸送船を所在に求めてこれを必殺すると共に敵上陸せばこれを地上に必滅す、此際機を失せず空海協力の下に予め待機せる反撃部隊を以て極力敵を反撃す」というものでした。これが「捷号」、「捷号決戦」と呼称される作戦計画の基本構想をなすものでした。

昭和19年8月4日

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 連合艦隊司令長官豊田大将は、「連合艦隊捷号作戦要領」を発令しました。日本海軍の主力作戦勢力は、いうまでもなく、連合艦隊であるという内容です。

 捷号作戦要領は下記となりました。「基地航空部隊は当初、敵機動部隊の攻撃を回避し、第5、第6および第7基地航空部隊はその全力を集中、適宜進出する。水上部隊もまた適宜進出し、上陸地点に殺到する。基地航空部隊は右に策応する。敵がなお上陸に成功すれば、敵の増援部隊を撃滅して敵の増援を阻止し、陸上兵力の反撃とあいまって、敵を水際に撃滅する。なお、敵の上陸点に対する海上部隊の突入時期は敵上陸開始後2日以内に実施することとし、航空撃滅戦は、水上部隊の突入時期より2日以前に開始する。」

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昭和19年8月10日

 マニラで捷号作戦に関する打合せが行われました。主な参加者は、
・ 連合艦隊司令部…作戦参謀の神大佐、軍令部作戦部の榎尾大佐
・ 南方方面艦隊司令部…司令長官三川中将
・ 第1南遣艦隊…瀬戸参謀
・ 栗田艦隊司令部…小柳少将参謀長、大谷大佐作戦参謀

 栗田艦隊の考えは次のようなものでした。「栗田艦隊の突入作戦に対し、敵艦隊は、その全力を挙げてこれを阻止するであろう。従って、好むと好まざるを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどということは不可能である。よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団をめざして敵港湾に突進するが、途中敵主力部隊と対立し、二者いずれかを選ぶべきや惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが差支えないか」という内容です。これに対し、神参謀は「差支えありません」と答えています。

ダバオ誤報事件とその余波

昭和19年9月9日

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 ハルゼー大将麾下の機動部隊は、それまでのパラオ諸島から一転ダバオを中心にミンダナオを襲いました。空襲は翌10日午前で打ち切られましたが、早朝ダバオではサランガニ見張所が敵上陸用舟艇近接という誤報を出したのに引き続き、まったく実在しない敵軍に対し、現地司令部が後方に撤退しました。



昭和19年9月12日

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 米機動部隊は再度中部フィリピンに来襲、セブおよびバコロド地区に対して航空基地を中心に空襲を加えました。これによってセブ所在の一航艦は約80機、他にバコロド地区の陸軍第四航空軍も約65機が破壊されました。また、セブ湾内在泊の艦船24隻が撃沈されました。この結果、一航艦は9月1日の実働250機から一挙に99機に減少したうえ、多くのベテラン搭乗員を失いました。これによって航空兵力の温存という捷号作戦の前提が相当程度揺らぎ、航空艦隊再建の一角が崩壊しました。

昭和19年9月21日~24日

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 米機動部隊は、首都マニラと中部フィリピンを襲いました。その結果、23日現在の一航艦の実働兵力は、合計63機に減少しました。また、これと協同することになっていた陸軍の第四航空軍の約200機は、ほとんど全機を失いました。



沖縄空襲

昭和19年10月10日

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 米機動部隊は沖縄本島を中心とする南西諸島を艦上機のべ900機で空襲しました。このときの米軍の攻撃部隊の編成は、重巡3、駆逐艦7という小部隊でしたが、その任務は「できるだけ、騒々しく動いて大艦隊接近の印象を与える」というレイテ上陸作戦のための陽動作戦でした。日本軍は、飛行機約45機、艦艇22隻沈没等の大きな損害を受けました。



台湾沖航空戦

昭和19年10月12日~14日

 米機動部隊のべ2700機以上による大空襲が台湾を襲いました。日本側は航空機だけで550~600機を一挙に喪失しました。このとき日本軍は、電装装備の精鋭攻撃部隊をはじめとする航空総攻撃を行い莫大な成果を挙げたとみなしました。

昭和19年10月19日

 大本営は、これまでの日本軍の劣勢を一挙に覆い隠すかくたる戦果を報じます。「我が部隊は…敵機動部隊を猛攻し、その過半の兵力を壊滅して之を潰走せしめたり。」しかし、実際には米軍艦艇の損害は、撃沈されたものは一隻もなく、損害空母1、軽巡2、駆逐艦2隻の計5隻のみでした。こうした大きな食い違いがどこから生じたかについては必ずしも明確ではありませんが、ここで重要なことは、この日本側の戦果の過大評価が、あとで見る様にレイテ海戦に大きな影響を及ぼすことになるという事実です。

 台湾沖航空戦の終わった10月18日の時点まで、米軍は89機を失ったのに対し、日本側の航空兵力のうち、第6基地航空部隊の台湾所在兵力は、一挙に300機以上(60%)を失い、実働機数は約230機に大幅減少していました。他方、比島の一航艦は35~40機、陸軍の第四航空軍も同じく約70機にすぎませんでした。こうした一連の空襲による日本軍の航空兵力の損失は、合計700機以上にのぼりました。

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捷一号作戦の展開(レイテ海戦)

昭和19年10月17日

 08:00過ぎ、栗田艦隊司令部は突然、レイテ湾入口にあるスルアン島海軍見張所から米軍上陸を報じる緊急電話を受けました。

 08:55連合艦隊司令部より、「捷一号作戦警戒」、10:00に「第一遊撃隊はすみやかに出撃ブルネイに進出すべし」との発令電を入電しました。

昭和19年10月18日

 レイテ湾内タクロバン沖に、マッカーサー将軍指揮下の米軍、戦闘機艇157隻、輸送船420隻、特務艦艇157隻、合計734隻という巨大な大部隊が姿を現します。

昭和19年10月20日

 連合艦隊司令部より「レイテ決戦要領」が下命され、第一遊撃部隊は機動部隊栗田長官の指揮下から除かれ、豊田連合艦隊司令長官の直轄下にとなりました。これによって組織上、作戦中枢とその実施のための主力部隊とが直結されることになりました。

昭和19年10月21日

 連合艦隊参謀長は、「作戦図演の結果、全艦隊を一方面から進出させるよりも、南北両方面から分進させるほうが有利」と通知してきた。ここに第一遊撃部隊は主力の栗田艦隊と支隊の西村艦隊に二分されることになった。

 連合艦隊の作戦は、主力艦隊による二方面からの殴り込み作戦と、そのための一艦隊(小沢艦隊)の全滅をかけた囮作戦という、「日本的巧緻の傑作」というべきものでした。

昭和19年10月22日 ブルネイ出撃

 08:00ブルネイからレイテに向けて出撃。

昭和19年10月23日 パラワン水道敵潜水艦の攻撃

 ブルネイ出港の翌朝、パラワン水道通過中の栗田艦隊は、待ち伏せていた敵潜水艦二隻により魚雷攻撃を受け、旗艦「愛宕」をはじめとして二隻の重巡洋艦が沈没、一隻が損傷します。

昭和19年10月24日 シブヤン海戦

 シブヤン海に入った栗田艦隊は、敵艦載機の五次にわたる猛攻撃を受けます。ここでは、主力戦艦の「武蔵」を失ったほか、重巡1、駆逐艦2を退陣させられます。

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 24日は、航空総攻撃日であるにもかかわらず、基地航空部隊からの攻撃はまったく効を奏していませんでした。栗田長官は、第2航空艦隊(福留長官)に対し、再三援助を要請しましたが、何の応答もありませんでした。福留長官は、敵機動部隊を直接攻撃することこそが、水上部隊の援護になると考えたためと言われています。

 栗田長官は、ついに15:30いったん反転して敵の空襲を一時避けることを決意します。この反転の報告は、30分後に豊田連合艦隊長官以下関係の各艦隊司令長官あてに発電されました。

 その後、敵機はまったく姿をひそめてしまいました。そこで17:14再反転を行ないますが、朝からの敵の空襲によって、その時点ですでに予定より6時間近くも遅れを生じていました。

 この頃から連合艦隊司令部と栗田艦隊の間、さらに関係各部隊の通信が不調となっていました。両者の間の電報が通信不調その他の理由により、時間的に入れ違いになってしまったことと、栗田長官からの再反転の報告が遅れたこともあります。いずれにせよ、電信の不調およびその他の理由によって、連合艦隊司令部と栗田艦隊司令部の間に、ある種の不信感が生じつつあつたことは事実です。また、いぜん栗田長官が最も知りたかった敵機動部隊と友軍についての的確な情報はほとんど得られないままでした。

昭和29年10月25日 栗田艦隊「反転」

 00:30過ぎ栗田艦隊は、サンペルナルジノ海峡を通過しました。

 一方、前日のシブヤン海反転によって、米機動部隊(ハルゼー大将率いる第三艦隊)は、海峡周辺とサマール島沖の警戒を解き、北の小沢艦隊(機動部隊)を捕えるべく、ハルゼー得意の勇猛果敢な突進「牡牛の暴走」を敢行していました。そのため、栗田艦隊は、予想とまったく違って、サマール島沖を06:00まで何の抵抗にも遭わずに南下することができました。

 06:45突然、数本のマストと敵の艦攻機を発見し、ただちにこれを追撃、戦闘状態にはいります。これは金ゲート中将率いる第七艦隊所属の護衛空母群でしたが、その戦力から見れば、栗田艦隊が優勢でした。とくに米軍側は、前日のシブヤン海の猛爆で、栗田艦隊は潰走したと見ていたため、不意を突かれた形でした。

 この米軍の空母は、船団護衛と上陸援護を主任務とする商船改造の応急船でした。しかし、栗田艦隊は、これを正規空母群と見誤っていました。改造空母を正規空母群と誤認したことは、その周辺の駆逐艦を巡洋艦に、護衛駆逐艦を駆逐艦にそれぞれ過大に見誤るという二重の誤判断を生みました。

 栗田長官は高速の戦艦、駆逐艦で追撃しても追いつかなかったために、二時間後09:11レイテ湾まであと24マイルの地点で、追撃を打ち切りました。いよいよ敵の正規空母群であり、それが少なくとも三群以上から構成されていると確信します。

 「大和」艦上の栗田長官は、隊列を整えるために一時全艦をレイテ湾の方向とは反対に北上集結させます。この間、集合地点に終結し終わるのに1時間半以上を要します。集結を終えた栗田艦隊は、11:20針路を再びレイテ湾に向けました。このとき、3日前にブルネイを出港した32隻の艦隊は、16隻に減少していました。

 レイテ湾に向って南下した艦隊は、12時過ぎ頃から、激しい空襲を受け始めます。まもなく、12:26栗田長官は、レイテ湾を目前にしながら反転を命じます。この反転こそが後に「謎の反転」と言われるものであり、それは「捷一号作戦」の第一目標であるレイテ湾突入を最終的に中止するという極めて重大な作戦方針の変更でした。

 いずれにしろ、各部隊およびそれらの間の不信、情報、索敵関係の低能力と混乱とが直接、間接に「謎の反転」と結び付いていることだけは確かであった。また、この時点で海軍捷号作戦(レイテ海戦)は初期の目的を達成できないままに事実上終了しました。

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アナリシス

 連合艦隊は、8月4日の「作戦要領」、10月18日「作戦指導の腹案」、10月20日「決戦要領」のいずれにおいても、レイテ海戦の目的としてレイテ湾への突入を指摘し、それに伴うものとして敵水上部隊の撃滅と敵上陸部隊の殲滅(センメツ)を考えていました。その意味では連合艦隊司令部は、栗田艦隊の「レイテ突入」こそが、捷号作戦全体の要であると判断していたと見られます。

 ここで問題としているのは、両者のいずれの見解が軍事戦略上、適切であったかではありません。より根本的問題として、作戦の立案者と遂行者の間に戦略目的について重大な認識の不一致があるという点です。とくにきわめて多様な戦略的対応を求められる統合作戦の場合には、この不一致のもたらす結果は決定的であるといわねばなりません。栗田長官による謎のレイテ反転の遠因あるいは真因はすでにここに存在していたのです。

 海軍捷号作戦は、作戦としては変形的なものでした。それは一方で小沢艦隊を囮として敵機動部隊主力わつりあげながら、他方でその間隙を突いて栗田、西村、志摩の三艦隊が二手に別れて策応しつつレイテ湾に殺到するという巧妙きわまりない作戦でもありました。事実、米軍側は、小沢艦隊の役割については戦後に至るまで明確に理解することができませんでした。

 “日本的”精緻をこらした極めて独創的な作戦計画のもとに実施されたが、参加部隊(艦隊)が、その任務を十分把握しないまま作戦に突入し、統一指揮不在のもとに作戦は失敗に帰しました。レイテの敗戦は、いわば自己認識の失敗でもありましたが、皆さんどう思われますか。



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