学習教室講師の世界(その1)…中町進学教室40年に及ぶ運営経緯

 まず私が、どの様な経緯で妻の運営する塾で数学と理科の講師となったかを紹介します。

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 1979年から1980年に会社からの留学制度により、私は米国スタンフォード大学大学院マテリアルサイエンス&エンジニアリング学科のエンジニアコースに通い、エンジニアディグリーを取得して帰国しました。帰国すると同行していた妻が突然英語塾を始めたいと言い出し、当初は学研のフランチャイズを始めました。その後、徐々に塾の規模は大きくなり、1989年(平成元年)にこれを会社組織での運営に切り換え現在に至っています。会社の社長は妻で、私は取締役という形で経営に参画して来ました。この間、片手間で数学と理科の講師を引受けてきました。かれこれ40年近くやって来た事になります。

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 40年間の塾運営経緯を、順を追って回想してみます。スタンフォード大学の留学を終えた2年後の1982年6月に長男の英宏が生まれました。英宏がようやく一歳になったころ、妻の伸子が学研の英語教室のフランチャイズ運営の話を持ってきました。長男の英宏が最も手のかかる時期になぜ始めるのかと、伸子は母親から随分と諭されていましたが、伸子の決心には強いものがあったようです。

 フランチャイズ教室運営を相談できる仲間も現れ、その後5年程続きました。私が記憶に残っているのは、教室のチラシを持って妻と一緒に近くの中部西小学校の校門の前で、小学生の子供が帰宅のため学校から出て来るのを待ち、チラシを手渡したことです。

 少しずつ英語教室も軌道に乗ってきた頃に、再度妻から相談がありました。それは学研のフランチャイズ運営のやり方が自分のやりたい方向性と違うので、出来たら独立した形で運営したいというものでした。金銭面でも、フランチャイズ運営だと学研本部に売り上げの半分をロイヤリティとして納めなければならないとしいう不満もあったようです。

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 1987年頃だと思いますが、学習塾で妻が得る収入が年間103万円を超えてきたので、私の扶養家族として扱うことが難しくなってきました。そこで、会社組織で学習塾を運営することを考えました。また、私自身もコンサル業を会社組織の中で進めることも考えていましたので、思い切って1989年に有限会社クレバープラニングを設立しました。

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 学習塾は、当初は英語のみの教室としてやってきましたが、学研のフランチャイズから外れて独立した形での運営を初めたころから、英語以外にも算数や理科を教えるという方向に変って来ました。当初は、三重大学の学生にアルバイトとして数学を担当してもらったり、理科については小学校の教師OBの方にアルバイトで授業をお願いすることもやってきました。教える教科を増やしたことで、生徒数は全体で50名ほどには増え、収入もそれなりに大きくなりました。しかし、外部から教師を雇い入れると、アルバイト料の支払いがそれなりに嵩み、かつ、アルバイトでは授業に対する責任感が今1つで、授業に穴を開けられるとか、授業の質の低下と言った点で問題が出てきました。そのような事情もあり、私が講師を手伝うことになり、最初は小学生や中学生の算数、理科を教えるということになりました。

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 1999年4月から2002年の3月までの3年間は、東京池袋にあるNEDOへの出向となりました。土曜の夜は塾の講師の仕事が入っていたため、ほとんど毎週の様に帰省していました。ただ、この頃は教えるといっても中学生までの算数と理科位のものでした。

 私がNEDOへの出向から戻った後、2002年から2004年の時期には、高校生の授業を持つという話が出てきました。そこで、数研のスタンダード数Ⅰ・A、数Ⅱ・B、数Ⅲ・Cの
問題集を全部自分で解き直すということをやり、高校生対応に務めてきました。時間はかかったものの、すべての問題を自分で解くことを意図的にやりました。当時の解答をファイルしたものが残されていますが、これは私にとって1つの宝物のような存在となりました。

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 2005年には、マンションUNOメゾンを建設して、1階を中町進学教室として使用開始しました。当時、他の教室はカタカナ表記の現代的なものが多かったのですが、敢えて「中町進学教室」という旧式の表記名をそのまま使用する事にしました。

 2008年にサラリーマン生活を引退した後は、中小企業診断士の資格を活かして、本業としての大学と銀行に拠点を置くコーディネーター業を始めていました。一方で、半ば副業の様な形で数学と理科の講師を勤めながら塾を支えて来ました。2018年(平成30年)で、塾講師も10年選手になりました。現在は、中学受験コース、高校受験コース、大学受験コースの数学、理科を担当しています。

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 2019年11月に、私も71歳を迎え、体の調子を悪くしたのをきっかけに、2008年から11年間務めてきた、三重大学の産学連携コーディネーターと北伊勢上野信用金庫の祖産学連携コーディネーターの仕事を退職しました。ただ、塾講師については、妻からの要望もあり継続していく決断をしました。その際、どうせ講師を継続するのなら、オンリーワンとしてやっていけるような講師になりたいと考えました。チャンスは巡って来ました。まず、2020年から大学の入試方法がこれまでの共通一次センター試験方法から大学一次共通テストに大きく変わりました。これにともない、これまでの出題方式が大きく変わることになり、講師にとっても、逸早くこの変化に対応できるかどうかが問われることになりました。大急ぎで対応に時間を割きました。また、2020年の初頭からコロナ感染症の広がりで緊急非常事態宣言が出され、延床面積100m2以上の大規模塾の集合学習が規制されることになりました。私共の小規模学習塾には風が吹くことになるのではと予想されました。

 学習塾もかれこれ40年近くやってきましたが、老後のボケ防止、老後の小遣いかせぎにはうってつけであると感じているこのごろです、皆さんはどう思われますか。



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