新世界秩序への誘い(その12)-フランス革命での陰謀とは

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 フランス革命は、18世紀にフランスで起きた市民革命です。世界史上の代表的な市民革命で、絶対王政による前近代的な社会体制を変革して、裕福な商工業者をはじめとする上層・中層市民社会、すなわちブルジョア社会を樹立した革命です。その目的は自由・平等・友愛でした。フランス国旗が三色旗であるのは、この自由・平等・友愛を表す革命の旗であったからです。

 フランス革命といった時、下図の歴史年表が示す様に、1787年の貴族の反抗で始まり、1789年にはバスチーユ襲撃で革命が全国に広がり、1799年のナポレオンによるブリュメールのクーデターでフランス第一帝政が開始されるまでの12年間を指します。

 その間、その政治体制は、国王が主権を持つ絶対王政から、憲法に基づいて国王や皇帝による支配が行われる立憲王政、国王や君主を持たない共和制へと変わります。

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 フランス革命の教科書における記述は概して下記の様なものです。

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 「フランス革命は、18世紀にフランスで起きた市民革命です。フランスの絶対王政は、17世紀後半、ルイ14世の時代に最も強力になりました。この時代には、カナダやインドに植民地がつくられ、ベルサイユ宮殿(左写真)も建設されました。

 聖職者や貴族は、広い土地と収入の多い官職につきながら、税は免除されていました。一方、人口のほとんどを占めた農民は、重税に苦しんでいました。しかも、民衆は政治に参加することが認められていなかったので、不満が高まって行きました。

 国王のルイ16世は、財政が増々苦しくなったので、これを緩和するために、漸進的な改革を目指しました。しかし、特権階級と国民との乖離を埋めることはできませんでした。

 1789年7月14日のバスチーユ襲撃を契機として、フランス全土に騒乱が発生し、第三身分(平民)らによる国民議会(憲法制定国民議会)が発足し、フランス革命の進展とともに絶対王政と封建制度は崩壊します。

 1792年から1804年にかけて、第一共和制が発足します。共和政府はルイ16世を革命裁判にかけます。国王が戦争の際にフランス政府と国民を裏切っていたという証拠が数多く提出され、1793年1月14日の国民公会は賛成387、反対334でルイ16世の死刑を議決しました。

 1月21日、2万人の市民が見守る中、ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑されました。10月にはマリー・アントワネットも、後ろ手に縛られ、肥料運搬車で市中を引き回された末に処刑されました。

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 ここからは、陰謀論として記述されるフランス革命について紹介します。

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 1784年に、ドイツのバーバリアン政府から、イルミナチは秘密結社であることが暴露され、活動を禁止されました。イルミナチは散り散りバラバラとなりましたが、フランスで直ぐにヤコビン・クラブとして再出発します。ここでイルミナチとは、フリーメイソンの極左セクトで、詳細は(その9)を参照下さい。

 1789年には、このヤコビン・クラブは、フランスで供給される穀類の多くを買占め、国外へ移しました。人工的な食糧不足が作り上げられ、生じた飢饉で人々の反乱を引き起こしました。そして、ヤコビンは飢饉をルイ16世とその女王マリーアントワーネットによるものと非難しました。

 その結果、1793年にルイ16世とマリーアントワーネットはその責任を問われ、フランス革命の中で処刑されることになります。さらに、自由、平等、永遠の名の下に、30万人の貴族が殺され、世界の最初の革命はイルミナチによって成し遂げられました。

 自由・平等・友愛による気高いフランス革命も、イルミナチの陰謀が入ると一辺に色褪せてしまいますが、皆さんどう思われますか。



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