新世界秩序への誘い(その16)…ローマ帝国の栄枯盛衰
「世界統一政府による地球レベルでの管理社会が、現在の主権独立国家体制に取って替わる。」とするのが新世界秩序の定義のようなものです。
この考え方が現代までにどの様に育まれてきたのか知るために、これまで新世界秩序に関する歴史を追いかけて来ました。それらは、
・古代神秘主義 (BC9000~BC1900)
・ユダヤ教の神秘主義「カバラ」 (BC1300頃)
・グノーシス主義 (AD272~AD337)
・シオン修道会 (AD1099~AD1993)
・テンプル騎士団 (AD1118~AD1314)
・薔薇十字団 (AD1614~AD1620)
・フリーメイソン (AD1640~現代)
・イルミナティ (AD1776~AD1785)
となっています。
歴史を追い求める旅はまだ続きますが、ヨーロッパの歴史はあまりにも複雑です。ヨーロッパの歴史、特にローマ帝国の変遷が判っていないと、ヨーロッパで発生した新世界秩序の本質も判りません。もっと理解を深めるために、私なりにローマ帝国の変遷をまとめました。
BC736年~AD293年:古代ローマ帝国
古代ローマは、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称です。
共和政ローマは、BC509年の王政打倒からBC27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指します。執政官が元首となります。初代執政官はルキウス・ユニウス・ブルトゥスです。
BC27年からのローマ帝国は、共和制から帝政へと移行します。初期皇帝はアウグストゥスです。更に、AD285年以降は、それまでの元首制から専制君主制へと変貌します。
帝国支配の形態には共和制、帝政、立憲王政等があります。共和制とは国王や君主を持たない政治体制であり、帝政とは国王が主権を持つ体制で、絶対王政とも呼ばれます。立憲王政は憲法に基づいて国王や皇帝による支配が行われる体制です。
時は流れて、AD313年にコンスタンティヌス1世が、首都をローマからコンスタンティノポリスへ移しました。そして、AD392年にテオドシウス1世は、古くからの神々を廃し、キリスト教を国教としました。
AD395年:西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂
AD395年にテオドシウス1世が死去すると、その2人の息子アルカディウスが東ローマ帝国を、ホノリウスが西ローマ帝国の皇帝として、ローマ帝国は東西に分割されました。
AD476年:西ローマ帝国の滅亡
AD476年に西ローマ帝国は、ゲルマント傭兵オドアケルの圧迫を受けて滅亡します。この西ローマ帝国の滅亡をもって古代の終わりであり、中世の始まりとされています。
一方の東ローマ帝国は、西ローマ帝国滅亡から1,000年近く存続しますが、1453年にオスマン帝国によって滅ぼされます。
AD486~AD843:フランク王国の誕生と変遷
西ローマ帝国は滅びますが、AD486年にフランク王国が成立し、神聖ローマ帝国へと進む歴史が始まります。
フランク王国の成立は、古代末期、旧ローマ帝国領にゲルマン系諸族が大量の移住を行ったゲルマン民族の大移動(AD375)に起因します。フランク族は、3世紀もの間、中部ヨーロッパで勢力を保ち続け、次第に現在のドイツとフランスに勢力を伸ばして行きます。西ローマ帝国の没落後は、フランク王国は西ヨーロッパで最大の国力を持つこととなります。
フランク王国の系譜は、クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィンス朝とそれを継承したカロリング朝に分けられます。
カロリング朝はローマ教皇との接近を強め、カトリックの権威を通じて自らの国王即位を正当化しようとしました。AD751年にローマ教皇の支持下でピピン3世がフランク国王となり、カロリング朝が創始されました。ピピンの息子で後継者となったカール1世(カール大帝、カロリング朝第2代皇帝)は、AD800年にローマ教皇レオ3世より、西ローマ帝国皇帝(フランク・ローマ皇帝)に載冠されます。これは、カールの王国が理念的にも東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から自立し、独自性を持ったことを意味します。そして、西欧に帝国が復興されたとの意味で、「西方帝国」と呼ばれていました。
AD814年にカール大帝が72歳で死去した後、後継者は敬虔王ルードウィヒ(ルイ1世)になりました。AD817年にルードウィヒの3人の息子に王国を分割しようとしますが混乱を生じます。なお、敬虔王はフランスやポルトガルの国王に使われた呼び名で、敬虔は神仏を深く敬い仕えることを指します。
AD843年:フランク王国の分裂
AD843年のヴェルダン条約で、フランク王国は東・中・西の3王国に分割されました。
西フランク王国は現在のフランスに繋がります。東フランク王国は後の神聖ローマ帝国を経てドイツへと繋がって行きます。中フランク王国は後にイタリアに集約されますが、神聖ローマ帝国時代には、皇帝がイタリア王位を兼任しました。
AD962~AD1806:神聖ローマ帝国の繁栄
神聖の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世が、ドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れます。東フランク王国を継いだ神聖ローマ帝国ですが、元々彼等は、古代ローマ帝国やカール大帝のフランク王国の継承国を自称していました。フランク王国は西ローマ帝国の継承国を自認しており、必然的に「神聖ローマ帝国」の名は、西ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国であるということを標榜していました。そして、帝位に相応しいと評価を得た者が、ローマ教皇によりローマで載冠し、ローマ皇帝に即位したのです。
また、古代ローマ帝国の王統な継承国としては、15世紀中期まで東ローマ帝国(中世ローマ帝国)が存続していました。当然のことながら、東ローマ帝国側は、神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」あることを認めず、その君主がローマ皇帝であることも承認しませんでした。(二帝問題)。
一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことをローマ帝国であると認めず、「コンスタンティノーブルの皇帝」「ギリシャ人の王」等と呼ぶ様になっていました。
ローマ教皇、ローマ帝国皇帝、帝国内の王国と国王、諸侯の違い
ここで少しローマ教皇庁について説明します。
ローマ教皇庁は、使途継承教会の首長としての地位の継承者として存続しており、カトリック教会の使途座のことを指します。使途ペトロに由来するとされます。また、ローマ教皇の下に、全世界のカトリック教会を統率する組織でもあり、バチカン市国という世界最小の主権国家の中に置かれています。
カトリック教会内や国際連合などでは、聖庁、聖座といいます。かつては、教皇は世俗の領主の様に自らの領地(教皇領)を持っており、事実上国家と同様に独立した行政権を領地内で行使していましたが、19世紀末のイタリア統一運動の中で失っています。ラテラノ条約によって成立したバチカンは、教皇庁が支配する国際法上の立憲国家でありますが、かつての教皇領のような世俗的支配を行う領地ではなく、国民は教会関係者のみです。
以上、ヨーロッパ歴史の中で圧倒的地位を占めるローマ帝国の変遷を見て来ましたが、新世界秩序との関わりは神聖ローマ帝国が最も深いように感じています。みなさんどう思われますか。