コーヒーブレイク…「百歳人生を生きる」という言葉との出会い

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 恥ずかしながら私もこの2月で満70歳となりますので、古希を迎えている訳です。古希と言う字は、新しい古いの古と言う字と、稀という字を書いて古希と読みます。ちょっと調べてみましたら、中国の唐時代の詩人に、杜甫という人がいます。彼が、「人生七十、古来稀なり」と謳ったのが語源ということです。要は、古くより人生は50年と考えられていたので、70年も生きると言うことは非常に稀で、目出度いという訳です。

 ところが、ここのところ色々な人に、私も古希を迎えましたとアピールしましたが、その反応が今一つなのです。60歳の還暦の時は、自分自身も第二の人生に燃えていましたし、周りの人も頑張れと応援してくれました。しかし、古希といっても反応はいまひとつで、「あっ、そう」と言うレベルです。88歳の米寿ともなれば、おう、すごい長生きしている、とい感じですが、70歳ではまだまだひよっ子なのでしょうか。

 ちなみに、長寿祝いの主だったもりは下記となります。不惑(40歳)、還暦(60歳)、古希(70歳)、喜寿(77歳)、傘寿(80歳)、米寿(88歳)、白寿(99歳)、…です。確かに古希は前から3番目で始めの方に位置しています。

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 そうこうしている時に、五木寛之氏の新版「百歳人生を生きるヒント」なる本を見付けました。紹介文は次の様なものです。

 「いま、日本という国は未曾有の長寿時代を迎えている。経済の不安、衰えていく体の問題、介護は誰がしてくれるのか。そこにあるのは、これまでの哲学や思想で語ることのできない、100歳までの長い道をいかに歩むかという重い課題である。」

 実を言うと、ここ1年程私自身も70歳を迎えるに当り、このようなことを色々と考えていました。私は60歳で会社を定年退職してから、中小企業診断士の資格を生かして独立し、第2の人生を歩んで来ました。この間2008年10月からコーディネーター’s BLOGを始め、毎月1話ずつ書き、今年2018年ですから約10年間で111話になりました。要はこの10年間新しい領域の事柄を勉強し、これをブログにまとめて来ました。

 しかし、70歳を目前にし、この10年間やってきた情報収集は一体何だったのかと、考えさせられる1年でした。しかし、五木寛之氏のこの本を読んで、目の前が開けた様な気がします。五木氏は本の中で次の様に言っています。

 ……百歳人生を考える場合、私はとりわけ人生の後半、五十歳からの生き方が問題なのではないかと思うのです。……

 ……周囲に惜しみなく愛をそそいだ人が、なんともいえない不幸にみまわれることもあります。悪が栄えて、正義が敗れることもあります。それを「苦」というのであって、「苦」とは、生きることはつらいことだという歎きの悲鳴ではありません。「苦」の世界の中で、「歓び」を求める。真の「生き甲斐」さがす。それが後半の五十年を抜く、ひとつのヒントであり、覚悟なのではないかと考えています。……

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 ……五十代から百歳への道のり、これを十年ごとに区切り、その各十年をどのように歩くかを考えてみました。それは次のような区切り方です。

五十代の事はじめ…これからはじまる、後半の下山の人生を生き抜く覚悟を、心身ともに元気な時期から考えはじめる時期。

六十代の再起動…五十代で思い描いた下山を、いよいよ実行する時期。実際にこれまでの生き方、生活をリセット(再起動)する時期。

七十代の黄金期…下山の途中で、突然あらわれる平たんな丘のような場所を充分に楽しみ、活動を補充する時期。

八十代の自分ファースト…社会的しがらみから身を引き、自分の思いに忠実に生きる時期。

九十代の妄想のすすめ…たとえ自身は不自由になっても、これまでに培った想像力で、時空を超えた楽しみに浸る時期。

これが私の思い描く後半五十年の下山の心構えです。……

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 五木氏はこの本を85歳で書いていますが、私が今迎えようとしている七十代について、もう少し彼の見解を聞いてみます。

 ……六十代にも増して、若いときと同じような「生命の躍動感」を覚え、ふたたび楽しい時間を過ごせるようになる。こういう人たちにとって、七十代は、大人の黄金期といえます。この元気な、七十代の「新老人」たちに私がおすすめしたいのは、脳の勉強法なのです。年をとってから学ぶおもしろさは、格別なものがあります。専門の学者なるのは別として、勉強のおもしろさを味わうつもりなら、歳をとってから再度トライしたほうが絶対にいいのです。若いころは古典を読んでも、ほとんど実感がともなわなかったように思います。一応、なるほどと感心はしますが、腹の底から、うーむ、と納得できるのは、やはり六十歳を過ぎて、さらに世間から自由になれる、七十代からかもしれません。……

 ……歳をとることはおもしろいというのは、そういうことです。瑞々しい情感が失われてくる代わりに、以前は見えていなかったことが、見えるようになるのです。頭で分かったつもりでいたことが、ぜんぜん違う角度から実感できるようになってきます。学ぶことのおもしろさに目が覚めることも、歳をとる効用の一つでしょう。七十歳からでも遅くはありません。七十歳になって大学に顔を出す、などというのも悪くはない老後の楽しみです。それは純粋に自分のための楽しみです。社会に貢献するわけでもなく、世のため人のためでもでもありません。……

 五木氏は七十代の体調の維持管理についても次の様に書いています。

 ……七十代になれば、病の現実を、目をそらさずに直視します。そして、それを否定しません。どうすれば少しでも楽になるかを工夫します。一番大事なことは、病気にならないように、普段から体調を維持することです。それを養生といいます。「治療」より「養生」なのです。人生は「苦」であると、私は「あきらかに」受け止めてきました。その中で、何ができるかを考えるしかありません。……

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 ……食べることは養生の大切な基本の1つなのです。百歳人生の後半人生を歩んでいる人は、とくに食事を注意深く摂取する必要があります。私が以前から行っていることのひとつに、「腹八分」のすすめ、といのがあります。「腹八分」とは、よく耳にする言葉ですが、それだけでは十分ではありません。人は個人個人が、さまざまな差異をかかえています。年齢というのも、大きな問題です。伸び盛りの十代までは、腹十分。つまり食べたいだけ食べて、しっかり育つ。二十代に入れば、腹九分でいい。三十代は、腹八分。ここが基準です。四十代になると、少しひかえて腹七分。五十代では、腹六分。以下、十歳増えるごとに一分ずつ減らしていく。六十歳を超えたなら、腹五分。七十代に達したときには、腹四分が適当でしょう。八十代では腹三分。現在の私は、ほぼ1日あたり一食半。やや多目かもしれません。九十代で腹二分。百歳で腹一分というのは、いささか酷でしょうか。百歳を超えたらカスミを食べて生きていただく。……

 85歳の五木寛之が書いているので、とても説得力がありました。これを50歳代の人か書いていたのであれは、私はこの本を読まなかったとおもいます。みなさんはどう思いますか。



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