ドイツの歴史を追う(その4)…ナチス党のドイツ独裁政治を可能にした理由

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 ナチ党のヒトラーがドイツを支配するに至った裏には、秘密結社フリーメイスンが伝承してきたヘーゲル弁証法に基づく策略「偽旗攻撃」を忠実に守ったからだと言われています。「偽旗攻撃」は、下記の3ステップから成る陰謀実施のためのフレームワークです。

 第1ステップ 混乱を意図的に創出する。
 第2ステップ 混乱に対する国民の対応の仕方を統制する。
 第3ステップ 自ら作り上げた混乱の解決策を提供する。

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 つまり、悪徳政府は国が危機的な状況にあるなか、国民に受け入れて貰わないと、国は大変なことになると煽り、国民の同意を獲得します。さらに、悪徳政府は、統制のレベルを高め、社会が最優先課題として受け取る様にします。その方法は、一連の混乱に伴って起こる反作用と解決策を自ら仕組むことによって導き出すのです。

 以下、ヒトラーの「偽旗攻撃」策略を追って行きます。

第1ステップ 混乱を意図的に創出する。

 第一次世界大戦(1914~1918年)における敗戦により、ドイツはそれまでのドイツ帝国からヴァイマル共和国として新たな道を進み始めました。ここで、帝国とは、君主が軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略する思想であり、共和国とは、君主が存在しない国家で、国民が直接または間接に選挙によって選ばれた代表により行使される統治制度を取る思想で、多くの場合、元首として大統領を置きます。

 しかし、1919年にヴェルサイユ講和条約の受諾で、ドイツはすべての海外植民地を没収され、国土の面積の13%を割譲し、人口の10%(700万人)を失いました。また、軍備の制限、ライン川左岸の非武装化、オーストリアとの「合邦」禁止、そして多額の賠償金が課せられました。このように、最初から重荷を背負わされた共和国は、1923年まで危機の連続でした。経済的には、賠償金の負担とともに、戦時の債務がインフレの原因となりました。

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 こうした中、共和国を襲ったのが1929年の世界恐慌でした。大恐慌のなか、失業者は膨れ上がり、労使対立も激化しました。議会の多数派形成は不可能となり、政権は議会にではなく、憲法第四条に基づく大統領緊急令に依拠して統治するようになりました。



第2ステップ 混乱に対する国民の対応の仕方を統制する。

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 当時の大統領ヒンデンブルグは、1932年第一党のナチ党の党首であるヒトラーを首相に任命しました。政権を握ったヒトラーは僅か50日余りで授権法を手にしました。授権法とは、全権委任法とも呼ばれ、政府に立法権を委ねるものです。これが成立すれば、政府は国会から自由に、大統領に依存することなく、法律を意のままに制定できるのです。



 そして、その直後から一連の新法を制定して国家のナチ化に乗り出しました。政権に楯突く恐れのある民主主義者やユダヤ人を公務員職から追放し、全国の州政府を統制下に置きました。ナチ党以外の政党は、すべて解体を余儀なくされ、新党の設立は法律で禁じられました。国会は形式上存在しましたが、政府の意見を承認するだけの賛同機関・宣伝装置へなりさがりました。

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 ヒトラーは、政権基盤を強化するため、軍・官僚・財界といった既成の権力エリートにも接近しました。その後、その後、ヒトラーの人気は急上昇し、1934年頃には希代の国政指導者と広く世間から評価されるようになりました。これは、最大の内政課題であった失業問題の解消と国民統合の進展、「強いドイツ」のイメージが浸透したことが大きな要因でした。積極的な公共事業による雇用の促進を図りました。その目的のため、アウトバーンの建設が法制化され、民間企業の設備投資を促進すべく、種々の助成措置が講じられました。若年層を対象とする勤労奉仕制度が導入され、女子労働者を家庭に戻す政策、夫婦の共働きを禁ずる政策が採られたこともあって、失業者は目に見えて減少しました。

第3ステップ 自ら作り上げた混乱の解決策を提供する。

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 ヒトラーは、「失業の撲滅」に向けて、国民が一致団結するように訴えました。鳴り物入りで進められた失業撲滅キャンペーンの大成功は、人々がヒトラーに吸い寄せられる大きな要因となりました。ヒトラーの対外政策上の目標は、ヴェルサイユ体制を打破し、東ヨーロッパにゲルマン民族の「生空間」を確立することにありました。やがて、軍備不平等を口実にドイツの国際連盟脱退を決めました。1934年にポーランドと不可侵条約を結び、翌年にはザイール地方の帰属をめぐる住民投票で圧勝し、ヴェルサイユ条約が禁じる空軍の保有と徴兵制の復活を宣言しました。

 フランスはこれに反発して、ソ連と相互援助条約を結びましたが、イギリスはこれを容認し、英独海軍協定を締結して、自らヴェルサイユ体制の崩壊に手を貸しました。こうした西欧列強の動きを見て、ヒトラーはラインラント非武装地帯に軍を進駐させるという大胆な挙に出ました。立て続けに大きな外交成果を上げるヒトラーに、国民の多くが驚き、大国ドイツの復活を印象付けたヒトラーを無二の指導者と礼賛するようになりました。

第2次世界大戦への突入とナチ体制の崩壊

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 戦争への意思を固めたヒトラーは、1937年1月戦争遂行計画を披露し、ゲルマン民族の「生空間」を東欧に樹立する必要性を力説しました。1938年3月、ヒトラーはオーストリアに軍を進めて、これを併合しました。これ以降、ドイツの膨張政策は加速し、9月にはチェコスロバキアのスデーテン地方の割譲を要求しました。

 1939年9月1日ドイツはポーランドに侵攻しました。3日には英仏が対独宣戦を布告し、第二次世界大戦が始まりました。1940年4月、ドイツはイギリス軍のスカンディナヴィア半島上陸阻止を目的に、ノルウェー攻略戦を敢行し、オスロを平定しました。続いて、オランダ、ベルギーを侵攻し、6月にはフランスを襲ってパリを陥落させました。フランスを倒したヒトラーは、次の目標をイギリスに定め、英本土の空襲を始めました。

 1941年6月、ドイツは相互不可侵条約を破ってソ連領内に侵攻し、独ソ戦が始まりました。1942年夏、ドイツ軍は東部戦線で攻勢をかけてスターリングラードを包囲しました。しかし、ソ連軍の猛攻撃はドイツ軍を打ち破り、遂に包囲されたドイツ第六軍は降伏しました。これで形勢が逆転しました。1944年6月、連合軍はノルマンディ上陸作戦に成功し、ドイツは東西から挟撃される格好となりました。

 1945年3月、連合軍はライン川を超えました。4月にはソ連軍がウィーンを占領し、やがてベルリンを包囲しました。4月30日、ヒトラーは瓦礫と化したベルリンの地下壕で、自ら命を絶ちました。

 なぜヒトラー率いるナチ党は短期間で独裁政治を行うことが可能になったのか?なぜヒトラーは、ドイツ国民の絶大な支持を得ることができたのか?今回色々な疑問が少しは解消しましたが、皆さんはいかがですか。



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