コーヒーブレイク…四日市公害の歴史的背景を追う

 私の出身地は三重県四日市市です。1948年2月23日が誕生日ですが、生まれた場所は四日市市広永町という片田舎です。5歳の時に四日市市中町という四日市市の町中に引っ越して来ました。中町はコンビナートから1km内外の場所で、私自身1960年に発生した四日市公害も経験しています。

 当時私は大学生で東京にいました。夏休みに帰省して1ケ月四日市の自宅で過ごして、東京に帰る時には亜硫酸ガスでのどをやられて東京に戻ったことを覚えています。四日市出身ということで、公害が如何に残酷なものであったかを十分に承知しているつもりです。今回は四日市の歴史に焦点を当てます。一体どうして四日市市にコンビナートができあがったのでしょうか?一体どうしてコンビナートは公害を発生させたのでしょうか?それを理解するには、四日市市の歴史を知る必要がありそうです。

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 これは三重県全体の地図です。四日市市は赤い部分の北勢地区に位置しており、県北部の中心都市です。東西20キロの町で、東の伊勢湾、西の鈴鹿山系に挟まれた地域です。大昔は、川が暴れることが多かったことから、良質な地下水に恵まれて、水は豊富で美味しいです。夏場でも渇水になることは全くありません。四日市市は三重県最大の人口31万人を擁しておりまして、東海地方では名古屋200万人、浜松80万人、静岡70万人、岐阜42万人に次ぐ規模です。三重県下では、四日市市と言えばそこそこ有名な町です。

 四日市市の歴史を私なりに少しまとめてみました。古くは古墳時代とか安土桃山時代の記録が残っていますし、江戸時代、明治時代、昭和時代には、四日市公害に結び付くものもありました。少し幾つかを紹介します。

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古墳時代

 日本で最も古い歴史書の古事記によれば、西暦300年頃の古墳時代にヤマトタケルノミコトが父親の命令によって、東国遠征に向いました。ただ、思う様に行かなくて、東国遠征の帰途に、満身創痍となって三重村という場所、今でいう四日市を通過したという伝説が残っています。疲れ切ってしまって足が曲り餅の様に三重に曲がって膨れ上がってしまったと嘆きますが、これが三重県という県名のゆわれです。これは本当かどうか判りませんが、今の湯の山温泉がある鹿の湯で、鹿が温泉に入って傷を癒しているのを見て、自らも温泉に浸かって直したと言われています。

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安土・桃山時代

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 安土桃山時代には、四の付く日に市場が開かれ、現在の四日市が始まったということです。さらに、四日市には天然の良港があったことから、回船業が発達し、全国の物資が市場に持ち込まれるということになりました。四日市の町が商業の町、港町として全国に名乗りを上げました。日本には他にも滋賀県の八日市、広島県の五日市といった、市の開かれた日を持つ地名が残っています。

江戸時代

 江戸時代に入りますと、東海道五十三次の43番目の宿場町として本陣や旅籠も設置されました。風の四日市という名で有名な安藤広重の浮世絵もあります。また、四日市には有形民俗文化財に指定されている四日市祭というものがあります。300年以上の歴史を持つ祭りでして、身の丈4.5mの大入道が登場します。首が伸びて、曲がり、大きな舌が出て、眉毛も動きます。なぜ、この様な大入道が登場したのか不思議に思い調べてみました。これは、この一帯に納屋町という地区がありますが、これが関与しています。納屋は今で言う倉庫のことです。港が発達していましたので、回船問屋が持つ多くの倉庫がありました。人の少ない場所であるため、薄気味悪い雰囲気を醸す場所でした。いたずら狸がしばしば現れ、町人に悪さをしました。このいたずら狸と町人との騙し合い合戦が行われて、相手をびっくりさせるために、大入道が使われたとの民話が残っています。

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明治時代

 明治以降は、日本の近代化の歩みと共に、四日市港を中心に商工業都市へと変遷して行きます。まず、1884年、明治17年に回船問屋を営んでいた稲葉三右衛門により近代四日市港が築港され、商業が栄えることになりました。また、同時に工業も盛んとなります。1886年, 明治18年に第十世伊藤伝七が東洋紡績を設立しました。当地には、東亜紡という会社もあり、当時、四日市市は群馬の高岡に次いで、紡績で有名となりました。イオンという大型ショッピングセンターがありますが、イオンも四日市が発祥の地です。1969年(昭和44年)に岡田屋からジャスコとなり、さらにイオングループとして発展した流通企業です。港湾都市としても四日市は増々大きくなります。

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昭和時代

 昭和の時代に入ります。四日市市は信じられないほどに大きく発展しました。1936年、昭和11年には四日市大博覧会も開催されています。ここから少しずつコンビナートと関わってきます。発端は海軍が1939年、昭和14年に第二海軍燃料廠を建設したことです。太平洋戦争が1941年、昭和16年ですから、その2年前です。ちなみに、第一海軍燃料廠は横浜に、第二海軍燃料廠は四日市に、第三海軍燃料廠は徳山に、第四海軍燃料廠は福岡です。戦争に備えて製油所とロケット燃料貯蔵場を四日市に準備したわけです。これには訳がありました。四日市港という立派な港を持っていたことが、目を付けられる大きな要因でした。そして、海軍燃料廠ができたお蔭で、四日市は太平洋戦争でB29の空襲に遭い、焼け野原となります。

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 戦後、10年間ほど四日市南部の塩浜地区には、広大な旧海軍燃料廠跡地が残されたままでした。1955年、昭和30年にその広大な用地と残存施設、そして港湾、用水、交通の便に恵まれる利点を生かし、当時の日本の中で最も新しいコンビナートを開発することが計画されました。それまで四日市市は主に紡績の町であり、コンビナート建設計画は、四日市市の経済発展にとって起死回生、千載一遇のチャンスとなりました。これは四日市市にとって絶対に外せません。1959年(昭和34年)には第一コンビナートの操業が、4年後の1963年(昭和38年)には第二コンビナートの操業が、さらに9年後の1972年(昭和47年)には第三コンビナートも本格稼働を始めました。そして、遂に1982年(昭和57年)には日本有数の石油化学コンビナートが形成されました。このように産業という面では四日市は大きく前進しました。しかし、一方で、四日市公害という環境問題を発生させてしまいます。

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 下にコンビナートの航空写真を示します。塩浜地区の第一コンビナートには、昭和四日市石油、中部電力、三菱化学、石原産業、といった日本を代表する4つの会社があります。これらの会社が公害問題を引き起こしました。午起地区の第二コンビナートには、コスモ石油、KHネオケム、日本板硝子、第一工業製薬、昭和炭酸、中部電力の6つの会社があります。更に、霞ケ浦地区の第三コンビナートには、東ソ、KHネオケム、中部電力、BASF Japanの4つがあります。皆さんも、これらの会社の名前は聞いたことがあると思います。
当時、日本で最大の規模を誇るコンビナートが四日市の地にこの様に建設されました。
もちろん、四日市市はこのおかげで財政的に潤いました。残念ながら現在は、日本で一番古い非能率なコンビナートになっています。

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 下の写真は現在の四日市市の空と60年前の1960年代の四日市の空を比較したものです。右側の1960年代の四日市の空は、コンビナートに立ち並ぶ全ての煙突からもくもくと出る亜硫酸ガスの煙で一杯です。空が煙っています。この亜硫酸ガスで四日市ぜんそくという病気が発生し、多くの人々が苦しめられました。現在の空には、この左側の写真に示す様に青空がはっきりと見えます。現在と60年前でどの程度の違いがあるかを数値として比較してみます。・現在の大気については、環境基準値というのがありまして、亜硫酸ガスの1時間当りの値が0.1ppm以下と規制されています。ところが、公害で汚染されていた1961年、昭和36年頃は、1時間値は1.64ppmと何と10倍以上になっていました。コンビナートの工場からは、大気汚染物質の亜硫酸ガス(硫黄酸化物)Soxが排出されていたわけです。亜硫酸ガスとは、コンビナートで燃やされる石炭や石油に含まれる硫黄分が燃焼により酸化したものです。また、この亜硫酸ガスは、大気中の水と反応することで、容易に酸性物質になります。従って、雨に混じれば酸性雨となって生態系を破壊し、鉄橋や建造物を痛めます。

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 この様な状況の下、ぜんそく患者が現れ、公害訴訟へと発展します。公害認定患者9名が、第1コンビナートの6社を相手にした訴訟です。昭和四日市石油、中部電力、石原産業、三菱油化、三菱化成工業、三菱モンサントのコンビナート会社6社が加害者となりました。1972年、昭和47年7月の第1審で原告側勝訴となり、企業側は控訴を断念しました。控訴断念は、企業にとって勇気のいった決断だったと思います。

平成時代

 2015年、平成27年3月21日に「四日市公害と環境未来館」という資料館が四日市市にオープンしました。場所は、近鉄四日市駅の西側5分の四日市市民公園の一角にあります。施設全体は「そらんぽ四日市」と呼ばれています。1階と2階が四日市公害と環境未来館、3階が四日市市立博物館、5階がプラネタリウムです。

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 実は私は、「四日市公害と環境未来館」という公害資料館のオープンの日に拘っています。それには理由がありまして、四日市公害の場合、裁判での決着は1972年、昭和47年7月と4つの公害の中で最も早かったのですが、ところが資料館が設置されるのには、43年もかかってしまいました。少しその理由を調べてみましたら、色々なことが分ってきました。そこには企業としての責任問題、市としての責任問題などなど、どろどろとしたものが底流に流れています。その詳細については、別の機会に紹介したいと思います。

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 公害裁判が終了してから資料館設置まで43年間経過するなんて尋常ではないですよね。これにはきっと何か別の意図があったと推測していますが、皆さんどう思われますか。

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