コーヒーブレイク …四日市公害と語り部活動

 三重大学人文学部の朴教授が担当する一般教養教育の特別講義に、三重学「四日市学の確立」がありました。私も2016年から2018年の3年間、本講義で1コマ90分を下記の内容で受け持たせて頂きました。

 2016年第1回目講義「米国シェールガス革命の裏側で進む環境汚染」
 2017年第2回目講義「四日市公害と環境未来館設立への苦難の道のり」
 2018年第3回目講義「地球環境問題の原点である四日市公害」

画像の説明



 今回のコーヒーブレークでは、第2回目講義の一部を「四日市公害の語り部活動」と題して抜粋して紹介します。四日市公害はどの様なものだったのか、もう一度原点に戻って考えてみる説明したいと思います。



画像の説明

 さて、ここで、四日市公害の語り部2人を皆様に紹介します。澤井さんと野田さんです。澤井さんは記録を残しましたし、野田さんは公害患者で澤井さんの被写体になりました。2年前の1月~3月にかけて公害パネル展を三重大学のメープル館で行いましたが、この時、四日市公害の語り部である澤井さんを招いてのトークショーをやりました。そのトークショーでは、澤井さんがどうしてこのような公害や公害患者の記録写真を撮ることになったのかについてのエピソードを聞くことができました。

 1960年頃「磯津の漁師町では喘息患者が増えていましたが、この現状をまず四日市市民の方に知ってもらうために、漁師の方々に話を聞きにいったのが記録を残すことになった始まりだったと言われます。磯津に通って漁師の方々と仲良くなって、本音を聞いていくというやり方です。その努力が実って、公害裁判では、記者が澤井さんを招いてくれて、記者にしか撮れない法廷内の写真を撮影させてもらったそうです。この澤井さんも、平成27年12月16日に突然亡くなられました。87歳でした。

画像の説明



 ここで、澤井さんの撮った写真を何点か紹介します。まずこれは1960年頃の四日市の空です。石油化学コンビナートの工場群から、石炭から出る煤よりもずっと恐ろしい亜硫酸ガスという目に見えない、人を蝕む物質が排出されました。



画像の説明



 これはマスクをして登校する児童の様子です。塩浜地区、中部地区、橋北地区内の小学校は、公害汚染が特にひどかったので、子供達は登下校時はマスクをしていました。また、公害による被害で、地域住民が引っ越したことで、児童数は急激に減少しました、小学校の統合も行われました。


画像の説明

 これは喘息に苦しむ患者さんの様子です。1966年第二四日市コンビナート内の大協石油付近の納屋地区に住む76歳の男性です。「病気が完治する見込みがなくて、喘息が一向に良くならない。どうしてこんなに苦しまなければならないのだ」と、喘息の発作に何度も嘆いていましたが、その後、とうとう遺書を残して自殺してしまいました。喘息患者のもっとも辛い点は、昼間は症状がでないので、健常者と変わりません。ところが、夜中から明け方にかけて喘息の発作がおこり、苦しみます。従って、周りの人からは「本当にあなた喘息なの」と疑われることが多かった様です。

 また、結婚前の女性にとっては、喘息患者と認定されるのがつらいことでした。認定されると、結婚して生まれるこどもも喘息を患うのではないか、ということで、結婚をためらう女性が多くいました。

 また、喘息だからといって、家にいたり、病院に入院するのも限界があります。生活のためには、働きに出る必要があります。ところが、不思議なことに、例えば漁師が四日市市を離れて外界へ漁に出掛けると、喘息が面白いぐらい発生しなくなります。しかし、四日市に戻って来るとまた発作がはじます。それぐらい四日市の空気は汚れていました。

画像の説明



 ここからいよいよ今回のメインテーマに入ります。公害資料館「四日市公害と環境未来館」がどの様な経緯を辿ってオープンに漕ぎつけたのかを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。



 ここには、公害資料館設立に至るまでの43年間の空白の経緯を示しました。スタートは、1972年7月24日の「四日市公害訴訟」第1審での原告側勝訴です。企業側は控訴を断念しました。控訴断念は、企業にとって勇気のいった決断だったと思います。

画像の説明

画像の説明



 これがその時の写真です。公害認定患者9名が、第1コンビナートの6社を相手にした訴訟です。昭和四日市石油、中部電力、石原産業、三菱油化、三菱化成工業、三菱モンサントのコンビナート会社6社が加害者となりました。この中の1人が野田さんで、先程紹介した語り部の1人です。1972年7月の第1審で原告側勝訴となり、企業側は控訴を断念しました。

画像の説明

 公害裁判が決着した後の20年間、四日市市政は加藤寛市長の時代に入ります。ところが、当時の加藤市長はコンビナート企業と組んで資料館設置の要望をことごとく撥ね付けます。加藤市長は、それまで四日市ぜんそくの被害企業の1社である三菱油化に務めていて、四日市市助役として選任されました。このことは、四日市市がコンビナート企業の思惑で動くというものでした。加藤市長は、公害は過去のものとして、公害の悪いイメージを消し去りたい、というものでした。コンビナート企業もそれを望んでいました。忘却ということです。なぜ四日市市は、忘却ということにこだわったのでしょうか?それは、コンビナートが出す亜硫酸ガスの濃度が基準値を下回るということで、環境改善が達成されるというデータを得たからでした。

 これがその根拠となるデータです。亜硫酸ガスの平均濃度の推移を示したものですが、1977年(昭和52年)に環境保全目標である0.017ppmを下回り始めています。このデータを根拠に、四日市の町は公害から完全に元の状態に戻りました。従って、公害を思い出させる様な資料館は必要ありませんと、主張した訳です。

画像の説明

画像の説明

 更に四日市市は、公害を忘れ去るために、次の手を打って来ました。2007年には四日市市側はイメージチェンジ大作戦を展開します。ほたるをテーマにポスターを作成しました。ほたるがコンビナートに生息するほど、環境は改善されたことを大いにアピールしたわけです。公害など過去のものとして忘れて下さいと市民に訴えました。


画像の説明

 このままでは四日市市のやりたい放題です。遂に澤井、野田さんの2人が敢然と立ち上がります。澤井、野田さんによる語り部活動が開始されます。

 1982年から澤井さんの語り部活動が開始されました。続いて、2000年からは野田さんの語り部活動が開始されます。野田さんと澤井さんは、公害を忘れることではなくて、反対に語り部として伝える活動を開始したのです。すなわち、忘却に対抗する発信の構図です。改めて資料館の必要性を訴え、市に要望書を提出します。

画像の説明

 その成果もあって、1995年頃から、市は公害に対する考えを少しずつ変えてきています。そして、2008年~2016まで、四日市市政は、田中俊行四日市市長の代となってきました。「負のイメージを払拭するのではなく、被災地で何が起きて、どうやって公害を向き合うのか。その経験を広く発信する方が大切だ」との考えに至りました。公害の忘却ではなくて未来への発信です。

 田中市長の面目躍如は、2011年9月、「公害犠牲者合同慰霊祭」に市長として約30年ぶりに参列したことでした。今までの市長には考えられない行動でした。田中市長は「環境改善が進んだ現在でも441人が認定患者となって苦しんでおり、まだまだ公害が克服されていない。公害資料館を整備して、公害の歴史を風化させないようにしたい」と述べました。

 更に、1昨年、平成27年3月21日に澤井、野田さんの語り部活動の甲斐あって、ようやく四日市公害と環境未来館設立の話に漕ぎつけました。田中四日市市長は、「四日市公害という負の遺産を正の資産に変える」というフレーズを使いました。我が三重大学の朴先生も味わいのあるフレーズを残しておられます。それは、「公害資料館は互いの役割を確認するプラットホームである」というフレーズです。

画像の説明

 朴先生の印象は、この絵に示すイメージにぴったりです。何かをやり出すと一生懸命で、言いたいことをズバズバという、そういう先生です。一言で言えばおてんば娘です。先生、言いたいことを言って済みません。目的の異なる人たちが、この資料館にやって来て、コミュニケーションを取る。そして、自分の役割が何であるかを認識する、そして、各人が各人の活動を展開する、そういう場であると言われました。まさにその通りであると思います。皆様にも一度は是非訪ねて頂きたいと思います。

 2015年3月21日にオープニングセレモニーが行われました。セレモニーには澤井さん、野田さんが一緒に登場しました。田中市長もいました。この時の野田さんの挨拶が非常に感動的でしたので、43年前の勝訴の時の挨拶と比較して下さい。

画像の説明



語り部野田さん語録(1972年)

 「裁判には勝ったけれど、青空が戻るまでありがとうは言えない。」




画像の説明



語り部野田さん語録(2015年)

 本当に市長さんありがとうございました。野田さんの、私の公害との戦いはようやく終わったという言葉をテレビの前で語っています。これが私には非常に印象的でした。


 今回は「四日市公害と環境未来館」設立への苦難の道のり、について紹介させて頂きました。2人の語り部、澤井さんは2015年12月に87歳で、野田之一さんは2019年1月に87歳で残念ながら亡くなりました。しかし、2人が生存中に「四日市公害と環境未来館」設立という目標が叶い、本当に良かったと思います。お二人に、本当にご苦労様でした。

 四日市公害に対する四日市市側と語り部側の立場は、まさに「忘却か発信か」だと思いますが、皆さんどう思われますか。



コーディネーター's BLOG 目次