不動産投資の世界を覗く(その4)…日本バブル時代の大きな爪痕

 日本におけるバブル崩壊期は1991年(平成3年3月)から1993年(平成5年10月)までの景気後退期を指します。

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地価下落・住宅価格下落

 1980年代末期の日本での不動産バブルは、価格上昇の原資は主に国内のマネーだけでした。大蔵省が行った総量規制で銀行の不動産向け融資が沈静化し、地価が大幅に下がり始め、バブルが崩壊しました。因みに、総量規制の目的は強制的に借金できる上限を設けることで、消費者の生活破綻を防ぐ、多重債務を防ぐこととしています。

 それまで土地神話のもと、決して下落することがない、と言われた土地が下落に転じ、以降、2005年に至るまで、公示価格は下がり続けました。2005年以降は、一部の優良な場所の公示価格が上昇に転じています。

 1998年末の時点で、日本の不動産の価値は2797兆円に及び、住宅・宅地の価値は1714兆円と不動産全体の約6割を占めていました。1998年末の土地資産総額はピーク比で794兆円、株式資産総額は同じくピーク比で574兆円減少しました。1980年末のバブル崩壊以降、日本の不動産の時価は600兆円以上暴落しました。日本全体の土地資産額は、1990-
2002年で1000兆円減少しました。バブル崩壊で日本の失われた資産は、土地・株式だけで約1400兆円とされています。内閣府の国民経済計算によると、日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2456兆円をピークに、2006年末には約1228兆円となりおよそ16年間で約1228兆円の資産価値が失われたと推定されています。

 また、バブル崩壊直前に高値で住宅を購入し、以降の価格下落で憂き目を見る例も少なくありませんでした。資産価格が下落したにもかかわらず、固定資産税が高止まりしたままだったり、バブル崩壊後の低金利へローンを借り換えようとしても担保割れで果たせませんでした。高値で買った同じマンションの別室がバブル崩壊後に破格値で売り出され、資産価値下落の補償を求める訴訟も起こされましたが、大半は自己責任として補償を得られずに終わっています。

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大手金融機関の破綻

 バブル崩壊後、損失補填、利益供与、巨額損失の隠蔽など金融機関の不祥事が相次いで発覚しました。政府は当初、大手金融機関は破綻させない、という方針を取っていましたが、1995年頃より「市場から退場すべき企業は退場させる」という方針に転じ、不良債権の査定を厳しくして経営状態の悪い金融機関を破綻・再生する処理にかかりました。この流れで1995年8月に兵庫銀行が銀行としては戦後初の経営破綻となり、以降、金融機関の破綻が相次ぎました。とりわけ、アジア通貨危機とも重なった1997年から1998年にかけ、北海道拓殖銀行(拓銀)、日本長期信用金庫(長銀)、日本債券銀行(日債銀)、山一証券、三洋証券など大手金融機関が、不良債権の増加や株価低迷のあおりを受けて倒産し、事態は金融危機の様相を呈しました。

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 拓銀は地価上昇を見越して土地評価額に対して過大な融資を行い、また、バブル期の融資に出遅れて、劣後順位での担保設定を行わざるを得なかったことから、回収が思うに任せず、不良債権が膨らみ、1997年11月、営業継続を断念しました。

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 長銀はバブル期に不動産・リース等、新興企業に積極的な融資を行いましたが、バブル崩壊後はイ・アイ・イ・インターナショナルへの多額の融資の焦げ付きを中心とする不良債権を抱かえ経営不振に陥り、1998年10月に制定された金融再生法の下で破綻認定され、国有化されました。

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 日債銀はバブル崩壊で膨らんだ不良債権を飛ばしで処理していましたが、1998年12月の金融調査で債務超過と認定され、国有化されました。

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 山一證券は1989年末をピークに株価が下落するのに伴い、一任勘定で発生した損失を顧客に引き取らせずに、簿外損失として引き受けて、いずれ株価の上昇で損失が解消するのを待ったが、銀行からの支援を失って1997年11月に自主廃業を選択しました(実際には破産宣告を受けて解散)。証券会社にバブル採用されたシャインたちは、入社数年で会社が倒産し、再就職もままならない状態に陥ったものが多くいました。

 銀行が大量に抱かえ込むことになった不良債権は、銀行経営を悪化させ、大きなツケとして1990年代に残されることになりました。そしてそれをハゲタカファンドに食い漁られる羽目になりますが、皆さんどう思いますか。



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