コーヒーブレーク…「日本の航空機産業の悲劇」

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 私事ですが、1999年から2002年にかけて(51歳~53歳)の丸3年間、経済産業省のNEDO(新エネルギー・産業技術総合開発機構)に出向していました。私は基盤技術研究開発室という部門に主査という肩書で配属になりました。NEDOでの仕事は、国家プロジェクトのマネジメントという仕事ですが、最初に担当したのは、航空機の「革新的軽量構造設計製造基盤技術開発」というテーマに携わりました。

 航空機産業は、米国のボーイングと欧州のエアバスの2社がデッドヒートを競っている時期でした。エアバスの超大型機(A380)に対し、ボーイング中型機(B787)の開発が進んでいました。我々のテーマは、ボーイング社との関連テーマで、炭素繊維強化型プラスチック(CFRP)およびアルミニウム合金を取り上げて軽量化を図るというものでした。

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 当時、プロジェクトに参加していたのは、日本航空機開発協会、冨士重工、川崎重工など4社でしたが、これら4社の技術スタッフと一緒に世界を駆け巡りました。アメリカのスタンフォード大学、ラスベガス国際会議、シアトルボーイング社、韓国釜山国際会議、パリエアショー、プランスツウルーズでの国際会議といったところです。

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 その時開発された技術は、後の787で機首部分と胴体部分に使用されています。この様に私も航空機に関しては、それなりに関与していました。2000年には米国ワシントン州のシアトルにあるボーイング本社工場の見学も行かせてもらいましたが、当時のジャンボジェット727の製造工程を見学させてもらいました。また、2001年の6月に開催されたパリのエアショウでは、エアバス社のA380デモンストレーションの印象が強く、ボーイング787は苦戦していたことが印象に残っています。

 当時、ボーイング777の製造開発に関するビデオ5巻を入手して、777の設計から製造に関する映像を毎日の様に見ていました。後に、社長になったアラン・モラーリが若き指導者として映像には写っていました。その中で型式証明を得ることが大変であったことを実感させられたものです。

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 最近、三菱航空機のMRJの話題が出ていますが、昔のことを思い出し色々と考えさせられています。MRJと言うのは、Mitsubishi Regional Jet の意味で、地域間輸送用旅客機のことです。MRJにMRJ-70とMRJ-90がありますが、70と90という数字は、70人乗り、90人乗りという意味です。特に三菱が力を入れて開発しているのは、MRJ-90の方です。この環境適応型高性能小型航空機の分野では、現在、三菱の他に2社のライバル会社があります。カナダのボンバルディアとブラジルのエンブライエルの2社です。

 2018年10月19日カナダのボンバルディアが三菱航空機をアメリカワシントン州のシアトル連邦地裁に提訴しました。その提訴理由ですが、三菱航空機がボンバルディアの小型旅客機Cシリーズの開発に携わった社員らを採用し、MRJの開発に機密情報などを不正流出したというものです。MRJ開発のスタートは2003年で、当初の事業化は2013年として動いていました。ところが、実際には2020年度と言われており、7年近く事業化は延期されたことになります。その間、5回の延期がありました。延期の理由は、部材の強度問題、空調システムの問題、電子機器の配置問題、最近では型式証明の認定問題です。開発費は1,500億円と言われていますが、実際にはもつと掛かっていると思われます。事業化を進める上では、投資回収ができる機数は750機ということです。

 なぜ、これほどに延期を重ねなければならないのかということですが、直近では、型式証明が問題になっています。型式証明とは、ある航空機の型式の設計が、安全性および環境適合性を満たしているかどうかを証明するものです。要は、一度型式証明を取得しておけば、その後同じ型式の航空機を生産するにおいて、同じ検査をする必要がないということで、非常に重要なものです。今回のボンバルディアの提訴もこれに関わるものです。具体的には、耐空試験では、熱帯地域で飛行試験をやった後、すぐに北極の極寒地域へ行って飛行士、温度変化に対して大丈夫かということを調べます。最後には、飛行機1機を試験機にかけて破壊することもやります。何十億とする飛行機が一瞬にしてお釈迦となります。

 ここで、日本の航空機産業の歴史を少し追ってみます。1945年(昭和20)に太平洋戦争の敗戦によって、連合軍に占領された日本は、占領軍により、その後7年間航空機の研究、開発や運用が禁止されていました。1952年(昭和27)に締結されたサンフランシスコ講和条約により、再び日本は独立し、航空機の開発、運用がようやく解除となりました。そして、1956年(昭和31)に占領政策により停滞した日本の航空機産業でしたが、国産旅客機の開発計画が立ち上がり、1957年には輸送機設計研究協会が設立され、零戦を設計した堀越二郎をはじめ、戦前の航空機産業を支えた技術者たちが集まり開発がスタートします。

 1959年(昭和34)年には、研究会は解散し、官民共同の特殊法人である日本航空機製造㈱が設立され開発を引継ぐこととなりました。1962年(昭和37)年には、名古屋空港で試作第1号機が初飛行に成功します。しかし、機体の安定性などに問題があり、そのため改修を余儀なくされ、民間での運用は初飛行から3年後の1965(昭和40)年となりました。

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 自衛隊への導入は1965(昭和40)から始まり、人員輸送型のYS-11P、貨物輸送型のYS-11C、飛行点検型のYS-11FCなどが導入されました。ほかに海上自衛隊、海上保安庁や航空局などの公官庁でも採用されました。海外へも積極的にセールスを行い、アジアやアメリカ、南米でも導入され好調なセールスを記録しますが、海外デベロッパーとの取引トラブルや部品供給の遅れなど様々な問題が生じます。そして市場でのシェア拡大を優先したため、原価割れでの販売を続けてしまい、結果的に年間2億円損失の経営赤字に陥ります。やがてこのままでは黒字転換は無理と判断され、1971(昭和46)年には生産中止が決まります。そして、1983(昭和58)年に日本航空機製造㈱は解散します。YS-11は合計で182機が製造されました。

 開発というものは、一旦先頭集団から遅れると、中々元に戻すことはできないものです。日本の航空機産業は完全にこの先頭集団に乗り遅れてしまっていました。現在、三菱重工は必死になって、その遅れを取り戻そうとあがいていますが、中々思う様に事が運びません。三菱重工は、第二次世界大戦で世界に名を轟かせたゼロ戦を開発しました。戦後は、このゼロ戦をベースにYS-11を開発しましたが、プロペラ機でしたので、ジェット機の製造は今回初めてとなります。MRJの特徴は、燃費が機体形状の最適化や複合材による軽量化によって従来の機体より2割削減したことです。欧州や米国の全域をカバーできる能力を持ちます。

 2018年10月に三菱航空機名古屋工場を訪問しMRJの姿をこの目て見てきました。ガイドさんよりMRJは3つのデザインコンセプトを持つとの説明がありました。それらは、下記の3点ですが、説明を受けると確かにMRJは日本産航空機という印象を強くしました。

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(1) 日本刀の反り…日本刀は背側が上に反っているのが特徴ですが、この形状を飛行機の
  ボディに採用しているとのことです。
(2) 歌舞伎役者の目の隈…コックピットの窓枠の部分に、歌舞伎役者の目の隈を描いている
  とのことです。
(3) 黒と赤の色調…輪島の漆器の黒と赤の色合いを飛行機のボディに使っているとのこと
  です。

 日本の技術力の高さを示す三菱MRJが1日も早く飛び立つのを楽しみにしている1人ですが、皆さんはどう思われますか。



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