失敗の本質(その1)…太平洋戦争前半:破竹の勢いで勝ち進む日本

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 中公文庫出版の「失敗の本質」は太平洋戦争において日本軍がなぜ負けたのかを、組織的論的に徹底して究明している本です。そのため、日本軍の失敗を現代組織への教訓や半面教師として捉え直す学際研究書として根強い人気を博しています。中小企業診断の世界においても組織論は重要なテーマでもあるので、本シリーズではこれを取り上げることにしました。

 ちなみに、本書を推薦されている著名人では、

 東京都都知事の小池百合子氏は、「何をどうやって間違ったかってことは、だいたい失敗に共通することで、要は「楽観主義」、「縦割り」、「兵力の逐次投入」とかですね」と述べています。また、サントリーホールディングス社長の新浪剛史氏は、「会社組織の経営に常に必要な“戒め”を学べる指南書です」と述べています。

 これらの方々の指摘する事柄か、本書のどこに相当するのかを捜し当てるのも1つの楽しみとなりました。

 本書では破綻する組織の特徴として、次の5つを挙げています。
1. トップからの指示があいまい
2. 大きな声は論理に勝る
3. データの解析がおそろしくご都合主義
4. 新しいかよりも前例があるかが重要
5. 大きなプロジェクトほど責任者がいなくなる

 いずれも現代の会社組織に十分に適用すると思われるものばかりです。さらに、なぜ日本人は空気に左右されるのか、という問題にも切り込んでいます。私としては、本書を私なりに正しく捉えたいと考え、まず太平洋戦争時の日本軍の思惑とそれを実行するとどうなるのか、そしてどのような出来事が起こったのかを時系列的に整理することから始めることにしました。

 下表は太平洋戦争に関連して起こった戦いを、時系列的に示した戦争歴史年表です。また、下図には日本軍が戦線拡大して行く様子を展開図として示したものです。

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 ここでは太平洋戦争を次の3つに分けます。

その1 太平洋戦争前半:破竹の勢いで勝ち進む日本
その2 太平洋戦争中盤:苦戦の攻防を強いられる日本
その3 太平洋戦争後半:瀬戸際に追い詰められる日本

 まずは、その1. 太平洋戦争の前半戦を眺めて行きます。
 
 前半戦は、ノモンハン事件から始まり、真珠湾攻撃、マレー沖海戦、スラバヤ沖海戦、珊瑚海海戦までです。この段階では日本は連戦連勝で破竹の勢いで東南アジアを占領して行きます。日本国は石油資源獲得のために、まずはアジア南方作戦を採ります。すなわち、中国からビルマ、インドネシアへと進出します。一方で、北はアメリカのアリューシャン列島、東はミッドウェー島といつたように、兵站の急速拡大を求めて行きました。

日中開戦と東南アジアへの進出(1937年~1940年)

 1932年の満州国建国後、日本はさらに中国北部へ進出します。しかし、蒋介石の国民政府と毛沢東が率いる中国共産党が協力をし、日本への対抗(抗日)を進めます。その様なおり、北京郊外にかかる盧溝橋付近で日本部隊への発砲をきっかけとして、日本軍が中国軍へ攻撃を開始しました(盧溝橋事件)。1937年(昭12)7月7日のこの出来事をきっかけに、日中は戦争の泥沼へと入って行きます。

1939年5月~8月 ノモンハン事件

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 日本軍は満州事変後、満州国の支配を通じて、直接国境をはさんでソ連・外モンゴル軍と対峙するようになり、国境画定のための満州里会議も実を結ばず、外モンゴル、満州国間の国境紛争は1935年以来頻発するようになっていました。ノモンハン事件以前の関東軍の方針では、原則として国境警備は満州国の軍隊および警察をもって行うことになっており、また中央部も、関東軍は国境線をはさんだ小紛争などを問題とせず、ソ連軍情報の収集と対ソ作戦の研究、軍隊の錬成などに専念するように指示を出していました。当時日中戦争は3年目を迎え、いよいよ泥沼化の様相を深めており、中央部が多方面において事態を紛糾させたくないと考えたのは当然でした。

 ソ連軍の攻勢の結果、多数の日本軍第一線部隊の連隊長クラスが戦死し、あるいは戦闘の最終段階で自決しました。日本軍は、戦死8,647名、生死不明1,021名、計17,364名の兵士を失い、また一方、ソ連・外モンゴル軍も戦死・戦傷合わせて18,500名の兵士を失いました。「停戦協定」では、国境線については、日本・満州国・ソ連・外モンゴルの間で協議が続けられ、確定された国境線の大部分は、ソ連・外モンゴルが従来から主張していた線でした。

1939年(昭14)9月第2次世界大戦の勃発

 ドイツが突如ポーランドへ侵攻し、第2次世界大戦が始まります。そして、翌年の1940年9月には、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結します。軍事、経済、政治の各分野にわたり相互に援関係を結びました。

 資源が少ない日本派、東南アジアの資源地帯に目を付けます。1940年9月、ドイツに攻撃されて弱体化したフランスに付け込み、北部仏印(現在のベトナム北部)へ軍を進めます。

アメリカの反発(1940年~1941年)

 日本のこの様な動きに対し、中国大陸における権益を狙っていたアメリカが反発します。まずアメリカがくず鉄の日本への輸出を禁止します。またイギリスも日本を包囲する動きを見せます。さらに日本軍が南部仏印(現在のベトナム南部)へも兵を進めると、アメリカにある日本の資産を凍結します。さらに日本への石油輸出を全面禁止とします。イギリス、オランダもこれにならいます。

 石油や鉄などの重要な資源の多くをアメリカや当時オランダ領であつたインドネシアなどに依存していた日本は、輸入が閉ざされれば戦争はおろか、基本的な国家運営さえも厳しくなってしまいます。日本政府は、日米関係を改善するため、外交交渉を行ないますが、アメリカは態度を軟化させず、最終的にアメリカ国務長官コーデル・ハルによって到底受け入れることのできない条件を突き付けられ、アメリカとの戦争を決定します。

奇襲攻撃による開戦(1942.12)

 1941年(昭16)12月1日、御前会議でアメリカとの開戦が決定されます。同8日朝、ハワイ沖に終結した日本海軍連合艦隊(司令長官山本五十六)の航空母艦から、多数の攻撃隊が飛び立ちました。主な目標はハワイ・オアフ島の真珠湾にあるアメリカ海軍太平洋艦隊の基地および停泊中の軍艦、なかでも3隻の空母でした。

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 日本は奇襲に成功し、戦艦や基地航空機の多数を破壊し、アメリカの太平洋における戦力に大打撃を与えます。しかし、肝心の空母は港内に存在せず、攻撃できませんでした。またこの奇襲攻撃の直前にアメリカに対し宣戦布告を行なう予定でしたが、アメリカの日本大使館での暗号電文の解読に手間取り、宣戦布告は攻撃に間に合わず、外交交渉中に突然行われた「だまし打ち」の格好となってしまいました。日本軍としては、開戦と同時に敵主力に大打撃を与え、戦意を喪失させることが目的でした。しかし、宣戦布告が開戦に間に合わなかったことで、逆にアメリカの日本に対する敵意を燃やすことに大きく貢献してしまい「リメンバー・パールハーバー」という掛け声のもとに戦意高揚の恰好の材料にされました。

南方作戦の開始(1941.12~1942.7)

 1941年12月8日の開戦から約半年、日本軍は連勝を続け、想像以上の速さで進撃します。その勢力圏は中部太平洋と東南アジアのほぼ全域に及びました。

マレー沖海戦(1941.12.10)

 帝国海軍は、1941年12月8日に行った真珠湾攻撃でアメリカ海軍に大打撃を与え、その2日後の1941年12月10日に行われたマレー沖海戦では、イギリス海軍の誇る新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」および巡洋戦艦「レパルス」を撃沈するなど、順調にアジア・太平洋の制海権・制空権を握って行きます。

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 この海戦は航空機のみの攻撃で敵戦艦を撃沈とており、これは世界初の出来事であり、イギリスに深い落胆をもたらすと同時に真珠湾攻撃と共に航空機が戦争の主役になりつつあることを証明するものでした。

 その後も12月25日に香港を制圧、翌年1942年1月にはフィリピン・ルソン島の首都マニラ、イギリスの東アジアの最大拠点であるシンガポールを陥落させました。



スラバヤ沖海戦(1942.2)

 太平洋戦争勃発とともに、日本海軍はマレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力戦艦のプリンス・オブ・ウェールズ、レパルスを撃沈し、東南アジア方面の最大の脅威を排除しました。日本軍はフィリピンを占領すると、続いて資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目的とし、3つの進撃路を準備しました。アジア大陸沿いにシンガポールを目指すルートと、ボルネオ島を経由して南進し、スマトラ島へ至るルートと、さらにフィリピンからマカッサル海峡、モルッカ海峡を経てジャワ島を占領するルートです。

 1942年2月にはオランダ領東インド、現在のインドネシア・スマトラ島のパレンバン油田を占領し、南方侵攻の最大の目的であった資源確保も実を結び始めます。日本軍はジャワ島占領を目的として行動を開始し、スラバヤ沖海戦で勝利すると、南方戦線を順調に進めて行きます。

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 その後、太平洋中部や南部にも勢力を広げ、オーストラリアへも空襲を開始します。また、後に重要な日本軍の航空兵力の拠点となるニューブリテン島のラバウルもこの時期に占領するなど、東南アジア・太平洋の各地で日本軍の快進撃を続けました。

 開戦からの約4ケ月間で、日本軍はアジア・太平洋地域のイギリス、オランダ勢一掃します。さらにアメリカの同盟国であるオーストラリアの北部地域へ空襲を行い、軍事拠点の無力化に務めました。

 開戦早々に南方資源地帯を抑えるのが日本軍の目標であり、これを「第1弾作戦」とすると、その後の「第2弾作戦」をどうするのか、日本陸海軍には、開戦時に第2弾作戦については明確な青写真はありませんでした。

 大本営には将来的にセイロン島攻略などインド方面に進軍し、イギリスの脱落を図り、アメリカの継戦意思を喪失させる構想があり、最終的には西アジアを進軍し、ドイツとの連絡も考えていました。

 陸軍は本来、中国大陸の制圧とソ連への対応を最も懸念しており、太平洋やインド洋に大きく展開し、占領地を広げることは考えていませんでした。そのため「国力の限界」を理由に、海軍の拡張的な作戦案に基本的に反対していました。

 一方で、海軍はアメリカ・イギリスの反撃を断念させるためには、オーストラリアやセイロン島(インドの南部の島)を制圧する必要があると感じていました。なかでもオーストラリアはアメリカ合衆国の同盟国であり、かつ、大陸であるため、連合国軍の反抗の拠点として重要視されていました。インド洋に対しては、1942年4月に機動部隊による攻撃が実施されることとなりました。

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 海軍の中でも、作戦立案の中枢である「軍令部」と現場部隊である「連合艦隊」の間では意見が分かれていました。軍令部はアメリカとオーストラリアの間の輸送路を断ち切り、オーストラリアの反抗拠点としての価値を無くすことに焦点を置くべきであると考えていました。一方で、山本五十六司令長官の連合艦隊は、一挙にアメリカの戦争に対する意欲を失わせるため、ハワイを攻略(占領)すべきであると強く主張します。ハワイ侵攻の前段階として、ハワイ西部に浮かぶ「ミッドウェー島」を攻略し、ここを拠点として準備を整えると共に、敵機動部隊をおびき寄せ、一挙に叩くことを主張していました。結果として、連合艦隊司令部が意見を押し通すこととなり、ミッドウェー島攻略と、その前段階として「MO作戦」発令が決定されました。

MO作戦と珊瑚海海戦(1942.5)

 日本海軍が開戦早々に占領し、基地を置いていたニューブリテン島の「ラバウル」、ニューギニアの「ラモ」、「サテモア」といった地点に、連合国軍はたびたび空爆を加えていました。そこで、連合国軍の航空基地のある、ニューギニア「ポートモレスビー」を攻略し、連合国軍の攻撃を阻止しようとしたのが「MO作戦」です。

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 1942年5月3日、ラバウルを出発した「ツラギ攻略部隊」にガダルカナル島の東に浮かぶ小島である「ツラギ」という島を占領します。一方、アメリカ軍は暗号解読によってMO作戦の全容を把握していました。そして5日、空母2隻を珊瑚海に待機させながら、ツラギを占領した日本上陸船団を攻撃します。日本軍もすかさずアメリカ軍空母部隊に攻撃を挑みますが、発見できませんでした。遂に、ポートモレスビー上陸を目指した船団がアメリカ軍に発見されてしまい、護衛をしていた空母「翔鳳」を撃沈されてしまいます。

 8日早朝、日本軍偵察機がアメリカ軍空母を発見します。ただちに日本軍攻撃隊は攻撃を開始し、爆弾、魚雷各2発が正規空母「レキシントン」に命中し、レキシントンは沈没しました。また、同じく正規空母「ヨークタウン」には爆弾1発が命中し、破損させました。一方で、アメリカ軍機は、日本軍大型空母の「翔鶴」「瑞鶴」を攻撃し、翔鶴の甲板に打撃を与えるも、沈没には至りませんでした(珊瑚海海戦)。

 日本側は空母の修理と搭乗員の補充に時間がかかることとなり、MO作戦の中断を余儀なくされました。戦闘の被害をより多く敵に与えたという意味で、戦術的には日本の勝利でしたが、日本軍の作戦目的を阻止したという点で、戦略的にはアメリカ軍の勝利となりました。

 緒戦の打撃からようやく立ち直りつつふったアメリカ軍を中心とする連合国軍の反撃が始まりました。日本軍の進撃スピードは一気に落ちて行き、やがて敗退を続けるようになります。皆さん太平洋戦争前半戦の模様はどの様に思われますか。



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