失敗の本質(その2)…太平洋戦争中盤:苦戦の攻防を強いられる日本

 太平洋戦争は、1940年12月8日の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月に終戦を迎える約5年間に及ぶ日米間で繰り広げられた戦いでした。1940年12月8日の真珠湾攻撃から1942年5月の珊瑚海海戦までの序盤戦では日本軍は破竹の勢いで勝ち進んできました。しかし、今回ご紹介する1942年6月のミッドウェー作戦、その後1942年7月のガダルカナル作戦が太平洋戦争の中盤戦となりますが、この辺りから日本軍の作戦に狂いが生じ始めます。

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ミッドウェー作戦(1942年6月)

 ミッドウェー作戦の真のねらいは、ミッドウェーの占領そのものではなく、同島の攻略によって米航空母艦を誘い出し、これに対し主導的に航空決戦を強要し、一挙に捕捉撃滅しようとすることにありました。

 ところが、この米空母の誘出撃滅作戦の目的と構想を、山本五十六連合艦隊司令長官は第
1機動部隊の南雲司令長官に十分に理解・認識させる努力をしませんでした。ここに、後世に至って作戦目的の二重性が批判される理由があります。南雲に対してのみならず、軍令部に対しても、連合艦隊の幕僚陣に対してすらも、十分な理解・認識に至らしめる努力はなされなかったのです。したがって、ミッドウェー攻略が主目的であるかのような形になってしまいました。

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 山本長官の本来の企画は第1機動隊に対して十分徹底されず、第1機動部隊は、「米機動部隊の出現はミッドウェー攻略のあとであり、ミッドウェー攻略中に米機動部隊が出現してくることはあるまい」との先験的判断を持ってしまっていました。一方、ニミッツは、場合によってはミッドウェーの一時的占領を日本軍に許すようなことがあっても、米機動部隊(空母)の保全の方がより重要であると考えていました。そして、「空母以外のものに攻撃を繰り返すな」と繰り返し注意していたのです。

 第1機動部隊の最も重大な錯誤は、米空母はミッドウェー付近に存在しないであろうという先入観にとらわれていたことです。そして、奇襲対処のための予備兵力の控置をせず、四隻の空母すべてからミッドウェーに対する攻撃を行ないまし。また、米空母の存在を確認したら、護衛戦闘機なしでもすぐに攻撃隊を発進させるべきでした。航空決戦では先制奇襲が大原則なのです。このタイミングを失したために、取りかえしのつかないことになってしまったのです。この戦いで日本海軍は航空母艦4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)を一挙に失いました。これに対し、米軍はエンタープライズのみの損失ですんでいます。

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ガダルカナル島をめぐる戦い(1942年7月)

 ミッドウェー作戦に敗れ、多数の空母と搭乗員を失った日本は、機動部隊による作戦が難しくなりました。そこで、ソロモン諸島の1つ「ガダルカナル島」に航空基地を築き、そこからハワイとオーストラリア間の輸送路ににらみを利かせることにしました。

 1942年の7月11日、日本軍はガダルカナル島に飛行場の建設を開始します。ガダルカナル島には、飛行場建設のため約2,500人の設営部隊と、守備隊として約300人の兵士(陸戦隊)が乗り込みました。飛行場がおよそ完成しようとしていた8月7日、突如アメリカ軍の大軍がガダルカナル島に攻撃を仕掛け、上陸を開始しました。ガダルカナル島にいた設営隊と陸戦隊はなすすべもなく森に逃げ込みました。

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 ガダルカナル島を奪回すべく、数度にわたって陸・海・空の激戦が交わされました。中でも陸の戦いは悲惨を極め、厳密に張り巡らされたアメリカ軍の機関銃や大砲による防御網に日本兵は次々とかかり、戦死しました。日本軍はガダルカナル島へ何度も食糧や武器弾薬の輸送を試みましたが、ガダルカナル島の飛行場や付近の空母から襲来するアメリカ軍機に阻まれ、補給は思うようにいきませんでした。そのため、残された兵は閉ざされた島で、極端な飢えとマラリア、赤痢などの病に苦しめられました。

 1942年12月になると、取り残された日本兵の間では、死んだ戦友の肉を食べたり、食べ物を奪い合うような状況となりました。12月31日、天皇陛下出席の下開催された御前会議にて、ガダルカナル島からの撤退が決まりました。撤退は周到な準備の下進められ、1943年2月の1, 4, 7日の3日間に分けて実行されました。この戦いで日本軍の戦死者は2万人以上と推測されています。戦死の大部分は餓死と病死によるものでした。

 ガダルカナル島から日本軍が手を引いた後、アメリカ軍は日本への攻撃スピードを上げ、日本軍は敗退の一途をたどることになります。

追い詰められる日本(1943.3~1945.1)

 1943年(昭18)になると、日本軍は敗色が濃くなってきます。ガダルカナル島などがあるソロモン諸島の西に位置するニューギニア島では、島の南東部にあるオーストラリア軍とアメリカ軍の拠点都市ポートモレスビーを攻めていました。しかし、海、空、陸からのいずれの攻撃も成功することなく、次第にアメリカ軍・オーストラリア軍に追い詰められて行きます。残った日本軍はニューギニア島の高地にこもって終戦まで戦いを続けました。補給は途絶え、自給自足を強いられたこの方面での日本軍の犠牲は13万人にのぼると言われています。

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山本五十六長官の戦死(1943.4)

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 1943年4月、山本五十六連合艦隊司令長官は前線の兵士の士気高揚のために、ブーゲンビル島などを視察に行く計画を立てました。部下は危険な前線への視察に反対しましたが、山本長官たっての希望で実行されました。その計画は暗号電文の解読によってアメリカ軍に正確に察知されており、山本長官機は待ち伏せの攻撃機に撃墜されて、墜落現場で長官の死亡が確認されました。

 ミッドウェー作戦が海軍敗北の起点とすれば、ガダルカナル作戦は陸軍の陸戦において初めて負けた戦いとなりました。もしこれらの戦いで日本が勝っていたなら、恐らく日本にとっても別の展開になっていたと思われます。連合艦隊司令長官の山本五十六は、このミッドウェー海戦で勝利した後、ハワイを攻略し、その後講和に持ち込みたいと考えていたそうです。皆さんはどう思われますか。



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