失敗の本質(その3)…太平洋戦争後半:瀬戸際に追い詰められる日本

 開戦当初(1940.12~1942.5)は、日本軍は破竹の勢いで陣地拡大を図って行きますが、1942年6月のミッドウェー海戦それに続く1942年7月のガダルカナル作戦の失敗で、一気に劣勢に立たされることになります。今回は太平洋戦争の後半にあたる1943年~1945年の戦争経緯を紹介しますが、もう目を覆いたくなるような惨憺たる有様となってしまいました。

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アッツ島の「玉砕」(1943年5月)

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 1943年5月には、日本軍に占領されたアメリカ本土であり、北方のアリューシャン列島の島であるアッツ島にアメリカの大軍が押し寄せました。日本軍守備隊は抗戦ののち、大本営に全員突撃して戦死することを意味する「玉砕」を命じられました。2,500名の守備隊はほぼ全滅しました。


 『アッツ島玉砕』はエコールド・パリの代表的な画家、藤田嗣司(1886~1968)が1943年に制作した油彩画です。雪の積もる孤島の山々を背景に、日本兵が銃剣と日本刀のみで決死の覚悟でアメリカ兵に挑みかかっています。どれが敵か、どれが味方か判りづらいほど絡み合った兵士たちの群像です。

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 その後、1943年11月にはソロモン諸島北方のギルバート諸島のタラワ島、マキン島の守備隊が玉砕します。ギルバート諸島の東に位置するマーシャル諸島も攻められて1944年2月に日本軍守備隊は玉砕します。このようにアメリカ軍は日本に至る太平洋の島々を徐々に攻め潰して行きました。

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マリアナ沖海戦とサイパン陥落

 太平洋の島々を陥落させたアメリカ海軍の次の大きな目標は、フィリピンのはるか東に位置し、サイパン島、グアム島等を抱かえるマリアナ諸島でした。マリアナ諸島から飛び立てば、新型爆撃機B-29によって日本本土のほとんどの範囲を爆撃できるようになるからです。

マリアナ沖海戦(1944年6月)

 1944年6月、マリアナ沖で日米空母部隊の総力を挙げた航空戦が行われました。日本海軍はこの時のために、失った空母部隊を約1年かけて再建してきましたが、暗号解読によって作戦の詳細が事前にアメリカ軍に読み取られていたこと、そして日本軍をはるかに上回る空母および航空機を用意したアメリカ軍の前になすすべもなく敗れ去ります。(マリアナ沖海戦)この戦いにより、日本の空母部隊は実質的に壊滅し、その後日本軍は空母部隊を再建することができませんでした。

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サイパン島総攻撃(1944.6)

 マリアナ沖海戦とほぼ並行して、アメリカ軍によるサイパン島への猛攻撃が開始されました。サイパン島は陸軍約2万8千人、海軍1万5千人が守る日本軍の一大拠点でしたが、具司令部の情勢判断の誤りにより、僅かな防御態勢しか整えていないところに、アメリカ軍の大軍が押し寄せ、猛烈な艦砲射撃と空爆の後、上陸しました。約3週間に及ぶ激闘の末、サイパン島守備隊の日本軍は「天皇陛下万歳」を叫びながら、敵に突撃する「バンザイ突撃」を激行します。アメリカ軍に打撃を与えつつもほぼ全滅します。

 サイパンは日本の委託統治領(植民地)であったため、その当時約2万人の日本の民間人も暮らしていました。アメリカ軍の捕虜になれば、男は虐殺され女は辱めを受けると教えられていた日本人は、自らサイパン島北部の断崖から身を投じ、およそ8,000人~12,000人が集団で自殺します。

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東南アジアの戦線:インパール作戦(1944年3月~7月)

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 同じ頃、東南アジアの戦線でも日本軍はほころびを見せ始めます。開戦以来、日本軍はビルマ(現ミャンマー)までを領土として押えてきました。ビルマの西隣のインドの国境付近の都市インパールにはイギリス軍の拠点があり、日本軍はここを叩く作戦を立てます(インパール作戦)。しかし、ビルマ、インド国境には険しい山脈がそびえ、補給線もままならないまま攻撃を命じられた日本軍は、補給線が伸びきったところでイギリス軍の反撃にあい、大打撃を受けながら退却しました。

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 太平洋戦争の中でも、特に無謀な作戦として知られるこのインパール作戦は、1944年3月から7月まで続き、約2万4千~2万5千人の日本軍将兵が犠牲になったとされます。日本軍の通った後には将兵の死体が連なり、「白骨街道」と呼ばれるに至ります。この後、ビルマ方面も連合国軍に押し戻されて行きます。


台湾沖航空戦(1944年10月12日~16日)

 1944年10月、沖縄や台湾を空襲するアメリカ軍空母や戦艦部隊に対し、約5日間にわたり、台湾から航空機による攻撃を行ないました。この航空戦で日本海軍は敵空母11隻を撃沈するなどの大成果を挙げたと発表し、それまでずっと敗戦一色だった日本は国中が狂喜します。しかし、戦果発表は間違いであり、実際はほとんどアメリカ艦隊に損害を与えていないことが明らかとなりました。それにもかかわらず、国中が大喜びしている中で、海軍はそのことを言い出せず、天皇や政府はおろか、陸軍でさえ敵空母が壊滅したことを信じたまま、その後の戦闘を行うことになります。さらに、この戦いで日本軍はフィリピンでの戦闘に参加する予定だった航空機の多くを失ってしまいました。

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レイテ沖海戦(1944年10月20日~25日)

 台湾沖航空戦から数日後、アメリカ軍はフィリピン・レイテ島に上陸します。レイテ島では日米の激しい地上戦が繰り広げられましたが、次第に日本軍は島の北方に追い詰められます。日本兵には、生きている限り戦い続けることを命じる「永久抗戦命令」が出され、各地で玉砕して行きます。

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 海上ではレイテ島に上陸したアメリカ軍への物資運搬を断ち切るために、日本海軍連合艦隊の残存艦をかき集めた海戦が計画されます(捷1号作戦)。この海戦は主に3つの日本艦隊が連携しながら別々に動き、レイテ湾のアメリカ軍の輸送船や艦艇を一気に撃破するというものでした。

 残された日本空母部隊がおとりとしてアメリカ軍空母部隊を北方に引き付けている間に、戦艦を中心とした艦隊がレイテ湾に突入する作戦でした。おとり空母部隊によるアメリカ軍空母部隊の引き付けには成功しましたが、レイテ湾に突入する直前に日本艦隊は引き返してしまい、作戦の目的は果たせませんでした。この海戦で大和と共に日本海軍の象徴であり、世界最大の戦艦であった武蔵が、敵航空機の攻撃により沈没しています。この海戦により、日本海軍連合艦隊は事実上消滅しました(レイテ沖海戦)。

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 1945年(昭20)になると、陸の戦いは首都マニラのあるルソン島へ移ります。マニラの市街戦では、約10万人とも言われる現地民間人が戦闘に巻き込まれたり、日本軍に虐殺されたりして犠牲になりました。日本軍はここでも次第に島の北方へと追い詰められ、終戦までゲリラ戦を展開しましたが、ルソン島における日本軍の犠牲者は21万8000人と言われています。

 この時期、日本軍のやることなすこと、すべて裏目にでて、軍隊としての機能が発揮できないまでになっていました。ここで日本はどうすべきだったのか、皆さんはどう思われますか。



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