太平洋戦争終戦(その4)…本土決戦に望みを託す日本

 日本は太平洋戦争という戦争に敗れるわけですが、どのように対処するかによって、日本の将来は大きく変わってきます。今回は、その辺りをしっかりと見て行きたいと思います。

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本土空襲(1944.11~1945.8)

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 1944年(昭19)6月と8月に北九州の八幡地方にアメリカ軍のB-29爆撃機による空襲がありました。日本本土への空襲は、1942年4月のドリットル空襲以来となります。この時、B-29は中国の奥地である四川省・成都より飛来しました。成都から飛び立つと北九州が飛来の限界ですが、1944年7月にサイパン島が陥落したことにより、東北より南の日本の大部分が空襲の国内に収まることになりました。

 1944年11月以降、サイパン島からB-29が次々に空襲にやって来るようになりました。1945年3月10日には東京が300機以上のB-29に襲われ、一夜にして10万人以上が亡くなりました。その後も日本全国の都市への空襲が続き、空襲による死者は全国で約50万人と推定されています。日本本土を守る高射砲や迎撃機は性能、数ともにアメリカ軍の攻撃を防ぐには全く十分ではなく、軍や工場だけでなく、一般市民も多大な犠牲を払うことになりました。

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硫黄島の戦い(1945年2月)

 1945年2月、アメリカ軍はサイパンと日本本土のちょうど中間あたりにある硫黄島へ上陸します。アメリカ軍はサイパンからB-29によって日本本土の爆撃を行なっていましたが、距離が長大なため、護衛機が守ることができず、B-29の損害が増えていました。そこで、護衛機の航続距離内に位置する硫黄島に目を付けたのです。

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 猛烈な砲撃・爆弾の後、上陸を強行したアメリカ軍は、地下陣地を掘って待ち構えていた日本軍の猛攻撃にさらされます。当初5日で硫黄島を陥落させるとしていたアメリカ軍は、1ケ月以上経った3月下旬にようやく日本軍の組織的戦闘を終了させることができました。硫黄島では日本軍に約2万人の死者が、アメリカ軍に約6,800人の死者と約2万4千人の死傷者を出しました。


沖縄戦(1945年4月~6月)

 日本本土攻撃の足掛かりとして、アメリカ軍は沖縄を占領することを決めました。その後、4月1日に沖縄本島へと上陸をします。「鉄の暴風」と呼ばれる猛烈な艦砲射撃と空爆が上陸地や県庁所在地である那覇市の首里周辺に浴びせられ、壊滅的な打撃を受けました。

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 日本は沖縄における戦いを本土決戦の前の時間稼ぎにしようと考えていました。自然の地形を生かした防御を展開します。いたるところでアメリカ軍を苦しめました。しかし、次第に圧迫され、慶良間諸島への攻撃から約3ケ月後の6月23日、日本軍は沖縄本土守備隊の司令官が自決し、日本軍の組織的な戦闘は終結します。


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 沖縄戦における日本側の正確な死者数は分っていませんが、軍人・軍属が約10万人、民間人が約9万人と推定されています。アメリカ軍は約18万4千人が上陸し、約1万4千人が犠牲になりました。日米両軍に多大な損害が出た沖縄戦ですが、容赦のない戦闘に巻き込まれ戦死しただけでなく、日米双方の軍にスパイ容疑で殺害されたり、捕虜になることを恐れて集団で自殺(集団自殺)する民間人が後を絶ちませんでした。

 沖縄戦では空と海の特攻(特別攻撃)も大規模に展開されました。九州の複数の飛行場から飛び立った航空機が沖縄周辺のアメリカ艦隊目掛けて体当たり攻撃を連日行いました。合計約1,900機の特攻機が出撃し、ある程度アメリカ軍の艦船に損害を与えましたが、選局を変えるほどの成果は挙げられませんでした。そして日本海軍の象徴であった戦艦大和も沖縄への特攻攻撃を命じられ、4月7日、九州南方沖でアメリカ航空機の大編隊に襲われ、沈没します。

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 沖縄戦さなかの4月30日、ナチス・ドイツ総統のヒットラーが自殺します。5月7日にドイツは連合国に降伏します。ヨーロッパの戦いが終了し、アメリカ軍をはじめとする連合国は、より大きな兵力を日本に向けることが出来るようになります。

ポツダム宣言と原爆投下(1945.8)

 ウランやプルトニウムなど原子核の核分裂反応から生み出される巨大なエネルギーを兵器として利用する原子爆弾の開発は、ドイツ、アメリカ、イギリス、ソ連、日本などで第2次世界大戦中に進められました。アメリカは1942年から「マンハッタン計画」という名前で原爆開発を進め、ついに1945年7月実験に成功します。

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 アメリカは日本本土への侵攻を計画していましたが、多大な犠牲が避けられないため、なるべく日本本土上陸はせずに日本を降伏に追い込みたいと考えていました。また、ドイツが降伏したことで、ソ連が戦力を極東に配備し直すと、満州の日本軍を攻め、日本の領土を我が物にしようとすることが予想されたため、ソ連が太平洋戦線に参戦する前に、戦争を終結させたいと考えるようになりました。

 そのため、原爆開発実験が成功に終わったことを知ったアメリカ大統領トルーマンは、直ちに日本へ無条件降伏を迫る「ポツダム宣言」を発表します。しかし、日本はポツダム宣言を無視し、8月6日に広島に、9日に長崎にアメリカ軍のB-29(エノラゲイ)によって原爆を投下させます。それぞれ1発ずつの原爆は、一瞬で広島と長崎を焼き尽くしました。当初は広島で約14万人、長崎で約7万人の人々が犠牲になりました。そしてこれまでに、放射能の影響で広島で約30万人、長崎で約14万人が犠牲になっています。この「新型爆弾」投下の情報は、日本政府と軍部に大きな衝撃を与えました。

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ソ連参戦(1945年8月)

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 広島に原爆が落とされた2日後の8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦布告をします。その翌日、満州国境に配備されていたソ連軍が侵攻を始めました。戦車や航空機を豊富に揃えた大規模なソ連軍は、国境を守備していた関東軍に襲い掛かります。関東軍は、それより前に南方の島々に兵士を配置するため、戦力の多くを引き抜かれてしまっていたため、ほとんどなすすべもありません。70万人と言われる日本軍将兵が捕虜となり、シベリアを始めとするソ連領や中国での厳しい環境の中、重労働を強いられました(シベリア抑留)。そして約6万人が死亡したとされています。満州に入植していた民間人も、ソ連侵攻後の戦闘と混乱で犠牲になったり、日本に帰ることができず、現地で暮らし続ける人が多く出ました。

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降 伏

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 日本政府および軍部では、戦争をどのように終わらせるべきか、長く議論が続いていました。8月10日、ついに天皇はポツダム宣言を受諾することを決めます。14日に中立国を通し、連合国へポツダム宣言受諾を通知します。15日には全国民へラジオ放送で戦争を終わらせる宣言を行ないました。(玉音放送)9月2日に日本の降伏文書に調印し、正式に終戦となりました。

ソ連の北方領土侵攻

 日本降伏後の8月18日、ソ連軍は千島列島最北端の占守島(シュムシュトウ)に侵攻し、その後9月5日まで南下を続けます。これにより千島列島全体がソ連に占領されました。これが今に続く北方領土問題の始まりです。

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 日本は敗戦国となりました、しかし、戦後日本は奇跡とも思える様な復興を遂げます。このことで日本が敗戦したことなど忘れてしまった方がいいのでしょうか。「失敗の本質」の著者らは、この点について次の様に述べています。「失敗の実態を明らかにして、その教訓を十分かつ的確に学びとることこそ、平和と繁栄を享受する我々に課せられた責務の1つであり、将来も平和と繁栄を保持していくための糧ともなるであろう。」皆さんはどう思われますか。



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