失敗の本質(その5)…ノモンハン事件から学ぶ教訓

 外モンゴルと満州国との国境は、もともと遊牧地帯であるうえに、中国が外モンゴルの独立を認めていなかったという事情もあり、きわめて不明確でした。日本軍は満州事変後、満州国の支配を通じて、直接国境をはさんでソ連・外モンゴル軍と対峙するようになり、国境画定のための満州里会議も実をむすばず、外モンゴル、満州国間の国境紛争は昭和10年以来頻発するようになっていました。

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 ノモンハン事件以前の関東軍の方針では、原則として国境警備は満州国の軍隊および警察をもって行うことになっており、また中央部も、関東軍は国境線をはさんだ小紛争などを問題とせず、ソ連軍情報の収集と対ソ作戦の研究、軍隊の錬成などに専念するように指示を出していました。

 当時日中戦争は3年目を迎え、いよいよ泥沼化の様相を深めており、中央部が他方面において事態を紛糾させたくないと考えたのは当然でした。ところが、国境紛争が実際に発生した場合の具体的な処理方針と要領は、第一線部隊には示されず、兵力使用の適否と限度という重要な統帥事項があいまいなままでした。


 要するに中央部の意図は、紛争が発生した場合には、その場の状況を勘案し、事態を悪化させないように現地と連絡をとりながら処理するというものでした。

第1次ノモンハン事件(1939. 5. 11~5.31)

 1939年5月11日ハルハ河東岸の国境線係争地区において、約20~60名の外モンゴル軍と満州国軍との間で武力衝突が発生しました。

 当時ハルハ河地区をその担当正面としていた関東軍第23師団であり、師団長小松原中将は、4月下旬に関東軍から示達された「満ソ国境紛争処理要綱」により、ただちに外モンゴル軍の撃破を決心し、歩兵第64連隊第1大隊、捜索隊主力に出動を命じ、同時にこの処理を関東軍司令部に報告していました。

 関東軍司令官植田は、小松原師団長の決心、処理を是認し、中央部の参謀総長に報告しました。これに対し中央部からは、参謀次長名で関東軍の適切な処置に期待する旨、返電がありました。

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 ここで軍隊用語について簡単に説明します。師団とは6,000人から2万人単位の兵士で構成され、その中には2~4個の連隊または旅団が含まれています。師団長は少将から中将が受け持ちます。

 参謀本部とは軍事組織における師団長・旅団長・連隊長・大隊長に当たる高級指揮官の作戦指揮を補佐する業務を行う機関です。軍事組織における指揮系統は単一であるために、参謀本部に一切の指揮権はなく、指揮官が参謀本部の補佐を得ながら指揮を執ります。

 日本においては、戦時中は連合艦隊司令長官が海軍の指揮・展開を行ない、作戦目標は軍令部(参謀本部)が立案することになっていました。また、大本営とは、日清戦争から太平洋戦争までの戦時中に設置された日本軍(陸・海軍)の最高統帥機関です。天皇の命令を大本営命令として発令する最高司令部としての機能を持ちます。従って、大本営とは参謀本部の頂点といえます。陸軍・海軍は内閣に従属して陸軍大臣および海軍大臣が軍政・人事を担当するのに対し、軍令部は天皇に直属し、その統帥を補翌する立場から、陸・海軍全体の作戦・指揮を統括します。

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 小松原師団長の下、第23師団は5月13日から5月15日にかけて、ハルハ河東岸の外モンゴル軍を攻撃し、外モンゴル軍はハルハ河西岸に撤退しました。そこで小松原師団長は、出動の目的を達したと判断し、部隊をハイラルに帰還させました。しかし、その後再びソ連・外モンゴル軍がハルハ河東岸に進出したため、小松原師団長は再び「満ソ国境紛争処理要綱」に基づいて、ハルハ河東岸のソ連・外モンゴル軍の撃滅を決心し、5月20日歩兵第64連隊、捜索隊に攻撃命令を下達しました。

 小松原師団長からの報告を受けた関東軍は、「ソ連・外モンゴル軍が一歩越境したからと言って、早急、不用意に出動するのは急襲成功の道ではない、しばらく機会をうかがい、相手方が油断した時に、突如立ち上がって、一挙に急襲することこそ採るべき策案である」として、21日関東軍参謀長から第23師団参謀長あて再考を求める電報が打たれました。

 これに対して第23師団長小松原中将は、すでに出動命令を下達した以上、これを中止することは統帥上不可能である、としてあくまでも攻撃強行を主張しました。関東軍司令官植田は、第23師団長小松原中将の主張を認め、5月23日中央部へ、本事件の処理方針について報告するとともに、関東軍として事件を拡大しないように注意する旨、伝えました。

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 5月24日の参謀次長から関東軍参謀長への返電は、関東軍として適切な処理をとるよう要望しただけに過ぎなかったのです。これを受けて5
月27日、第23師団麾下の山県支隊は、ハルハ河へ向かって進撃を開始しましたが、圧倒的なソ連軍の砲撃を浴びて支隊主力は動けず、先頭の約200名は孤立し、ソ連軍の砲撃と戦車により全滅しました。

 第23師団長小松原中将は、全般の戦況を考慮して、5月31日攻撃部隊に撤収命令を出し、ここに第1次ノモンハン事件は終了しました。

第2次ノモンハン事件(1939. 6.23~8.19)

 第1次ノモンハン事件を受けて、5月参謀本部作戦課は「ノモンハン国境事件処理要綱」を作成し、大本営としての基本構想をまとめました。この要綱の主旨は、関東軍を信頼してその処置に任せるが、敵に一撃を加えた後は、すみやかに兵を後方に撤退させるように、その行動を規制し、事件の拡大を招きやすい航空部隊による越境攻撃は、これを強く抑制する、というものでした。しかしながら、この要綱はあくまでも大本営の腹案にとどまり、関東軍に示達されることはありませんでした。

 その後、関東軍による作戦要領は下記の様に修正されます。主力部隊が第7師団から第23師団に変更され、歩兵が4大隊、大砲が約20門、工兵が2中隊それぞれ増強されました。この修正案は6月20日関作令第1532号として下達されました。

タムスク爆撃

 タムスク爆撃の際にも、関東軍の寺田参謀は、中央部との意思統一が不十分であるとして自重を促したが、関東軍作戦課は、「タムスク進攻作戦は国境防衛任務達成上の戦術的手段として関東軍司令官の権限に属するもので、別に大命を仰ぐ筋合いではない」として作戦準備を強行しました。関東軍は、中央部が国境紛争不拡大方針をとっており、とくに航空機による越境爆撃には絶対反対の立場をとっていることを十分承知していたため、この作戦については一切中央部に秘匿して準備を進めました。

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 ところが、関東軍の一参謀によりこの計画が大本営作戦課に伝えられ、6月24日に参謀次長より、この越境爆撃計画は事件の拡大を招くおそれがあり、不適当であるので自発的中止を求める、との電報が関東軍参謀長あて届けられました。またこの電報には、連絡のため参謀本部の将校を派遣する旨付け加えられていました。

 そこで関東軍は大本営の明確な命令指示がないことを利用して、具体的な規制が行われる前に、越境爆撃作戦を強行することに決定しました。6月27日第二飛行集団はハイラルの飛行場を出発して、タムスク、サンペースを急襲し大きな成果を挙げました。しかし関東軍のこの独断攻撃は、中央部と関東軍の間に激しい感情的対立を引き起こしました。

ハルハ河渡河作戦

 大陸令第320号の発令により、ハルハ河東岸のソ連・外モンゴル軍を攻撃しなくてもよいことになりますが、関東軍としては、越境したソ連・外モンゴル軍を撃滅するとの従来の方針になんらの変更も加えませんでした。

 6月30日攻撃に関する師団命令が下達されました。攻撃計画の要旨は、第23師団主力をもってハルハ河西岸に進出し、西岸のソ連・外モンゴル軍陣地を背後から攻撃する、一方、安岡正臣中将の指揮する戦車第3、第4連隊、歩兵第64連隊、独立野砲兵第1連隊、工兵第24連隊は、主力の攻撃に呼応してハルハ河東岸を南進し、東岸のソ連・外モンゴル軍を殲滅する、というものでした。

 一方、ソ連軍の作戦計画は、ハルハ河東岸の陣地をあくまでも確保し、日本軍の包囲攻撃に対しては、増強した機甲兵団による阻止攻撃を行い、さらに日本軍の出方によっては、航空部隊を含む優勢な兵力による縦深陣地からの反撃を予定していました。

 ハルハ河西岸は、東岸よりも高く、東岸のソ連・外モンゴル軍陣地を攻撃する日本軍は、ほとんど全部が西岸のソ連軍砲兵の視界のなかに入り、西岸から正確な砲撃を浴びることになりました。そこで植田関東軍司令官は。ハルハ河西岸の敵砲兵さえ撲滅すれば、東岸の陣地は容易に奪取できると考え、従来の歩兵を中心とする攻撃から砲兵主体の攻撃への切換を計画しました。7月12日の師団命令は、砲兵全力の展開を待った後、攻撃を開始し、一挙にハルハ河東岸のソ連・外モンゴル軍陣地と西岸台上のソ連砲兵を撃滅する、というものでした。

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 砲兵を主体とする第23師団の総攻撃は、7月23日から実施されましたが、結局予定された成果を挙げることはできませんでした。砲兵戦において勝利を勝ち取るためには、まず第一に相手を圧倒できるだけの多数の火砲と多量の爆薬を準備しなければなりません。また、目標に対して十分な捜索を行なった後、急襲的かつ一挙に敵砲兵を撲滅することが必要でした。

アナリシス

 当時の関東軍は、満州国の内政指導権が関東軍司令官に与えられていることを理由に、しばしば政治に干渉し、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していました。対ソ戦争の準備に専念すべき各地の師団も政治経済の指導に熱中し、また治安維持のために兵力を分散配置し、対ソ訓練はほとんど行われなかったと言われています。当時の関東軍の師団に対する検閲後の講評は、「統帥訓練は外面の粉飾を事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実戦即応の準備を欠く、その戦力は支那軍にも劣るみのあり」というものであった。また関東軍の作戦演習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神憑り的な指導で終わるのがつねでした。

 ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返しました。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのです。

 また統帥上も中央と現地の意思疎通が円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張する幕僚が向こう意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗のおおきな原因でした。

 満州国支配機関としての関東軍は、その機能をよく果たし、またその目的のためには、高度に進化した組織でした。しかし統治機関として高度に適応した軍隊であるがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に直面し、しかも対等ないしはそれ以上の敵としてのソ連軍との戦いというまったく新しい環境に置かれた時、関東軍の首脳部は混乱し、方向を見失って自壊作用を起こしたのです。皆さんどう思われますか。 



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