失敗の本質(その6)…ミッドウェー海戦に学ぶ教訓
ミッドウェー、ガダルカナルは、良く知られているように、それぞれ大東亜戦争における海戦と陸戦のターニング・ポイントでした。それまで順調に軍事行動を進ませてきた日本は、この二つの作戦の失敗を転機として敗北への道を走り始めたのです。とくにミッドウェーは、作戦の成功と失敗の分岐点を明らかにする事例としても、注目される特徴を有しています。この作戦の失敗には、作戦目的の二重性や部隊編成の複雑性などの要因もからんでいますが、米軍の成功と日本軍の失敗とを分かつ重大なポイントとなったのは、不測の事態が発生した時、それに瞬時に有効かつ適切に反応できたか否かでした。
全体計画
この作戦はミッドウェーを攻略することによって米空母部隊の誘出を図り、これを捕捉撃滅しようとするものでした。連合艦隊は、ミッドウェーの奇襲攻略は可能であり、これに応じて反撃に出てくるであろう米空母部隊を捕捉撃滅することも、現在の戦力から見て容易であると判断していました。
ミッドウェー攻略作戦と同時にアリューシャン攻略作戦もあわせて行われることになったため、本作戦には連合艦隊の決戦兵力のほとんどが動員されることになりました。このため、北太平洋から中部太平洋にまたがり、山本司令長官のもとに艦船約200隻、航空機約700機が、主力部隊、攻略部隊、機動部隊、先遣部隊、基地航空部隊、北方部隊などに分かれて展開しました。これらの艦船の総トン数は150万トンを超え、乗員、将兵は10万人に及びました。このように本作戦には多くのプレーヤーが参加していましたが、ただ、ミッドウェー海戦において主役を演じたのは航空母艦を基幹とする第一機動部隊の南雲中将司令官でした。
シナリオ
N-2日
まず、南雲第1航空艦隊司令長官の指揮下、第1航空戦隊、第二航空戦隊の空母4隻を中心とする第一機動部隊は、6月5日、ミッドウェーの北西250カイリ(462km)付近に進出し、同島を奇襲し、所在の敵航空機、基地施設等を撃滅し、一時使用不能にする。状況によっては同日再度攻撃を実施する。この間、母艦搭載機の半数は敵艦隊の出現に備えて待機する。
N-1日
敵情に変化なければ、機動部隊は敵艦隊の出現に備えつつミッドウェーの攻撃を続行する。ミッドウェーの基地使用が可能になりしだい、各空母に搭載中の基地航空部隊の戦闘機を同島に進出させる。以降N+7日まではミッドウェー付近海面に行動し、N+7日以降命により同海海面を離れトラック島の基地に向かう。
海戦経緯
序幕-索敵の開始
・ 第1機動部隊は6月5日0130(日の出20分前)、ミッドウェーの北西約210カイリ付近に到達し、空母(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)の上空警戒機、ミッドウェー攻撃隊を発進させました。また同時に敵空母(ヨークタウン、エンタープライズ、ホーネット)の存在に備えて索敵機を発進させました。
・ この時点での南雲司令長官の状況判断は従来と変化なく、敵空母が付近で待ち受けているとはまったく考えていませんでした。そして、連合艦隊司令部の指導により万一的空母が出現した場合の可能性に備えて待機させていた航空兵力を、ミッドウェーに対する第二次攻撃に振り向けようと予定していました。
第一機動部隊vs.ミッドウェー航空基地
・ ミッドウェー上空に達した日本軍攻撃隊は、0330頃第一弾を投下、約30分間にわたり計画どおりミッドウェー基地に対する攻撃を実施しました。しかし、同基地の航空兵力はすでに発進ずみで地上にはほとんど残っておらず、基地施設に大損害を与えたものの、滑走路などの破壊も十分ではありませんでした。このため、攻撃隊指揮官からは、第二次攻撃の必要がある旨の報告が0400に第1機動部隊に入りました。
・ これに対して、ミッドウェー基地を発進した米軍航空部隊は0405頃から日本軍第1機動部隊上空に到達し、逐次攻撃を開始しました。これは小兵力による断続的なもので、0540頃まで約1時間半にわたって続けられることになります。しかし、この攻撃そのものには見るべき成果がなく、反対に米軍機は極めて大きな被害を受ける結果となりました。しかしながら、この長時間にわたる断続的、不統一な攻撃は、意図せざる結果として、日本軍側に上空警戒機の連続配備、攻撃隊の兵装転換遅延をもたらし、南雲司令長官の先頭指揮をむずかしくさせる一因に結び付くことになったのでした。
南雲司令長官の意思決定
・ この間南雲司令長官は、さきに発進させた索敵機が捜索戦の前端に到達するのを待っていましたが、予定時刻(0415頃)になっても敵艦隊発見の連絡はありませんでした。このため同長官は、予想通り、ミッドウェー付近には米艦隊はいないものと判断し、当初の予定通り、第二次攻撃をミッドウェーに対して実施することにしました。
・ ところが、ミッドウェーに対する攻撃に備え航空機の兵装転換作業中の0428に、遅れて出発した第4索敵機の「利根四号機」から、「敵ラシキモノ発見」の報が入ります。続報を待ちながら、南雲司令長官は米艦隊が近くに存在することは確実であり、おそらく空母を含むであろうと判断しました。そして、0445、ミッドウェーに対する第二次攻撃をとりやめ、米機動部隊を攻撃することを決意、ミッドウェー基地に対する陸上攻撃用から艦船攻撃用に航空機の兵装転換を命じ、索敵機に対し引き続き空母存在の確認と接触持続を命じたのでした。
・ 0520になって、索敵機は、敵は空母らしきもの1隻を伴うと報告してきました。ここに敵空母の存在が疑うべくもないものになったのです。この時点で両軍機動部隊間の距離は約210カイリと判断されました。これは空母機の攻撃可能範囲のなかにあります。機動部隊の航空決戦の原則からすればただちに攻撃隊を出さなければなりません。
・ しかしミッドウェー基地からの1時間半にわたる米軍機の断続的攻撃はいぜん続いていました。我が方の艦艇に対する被害はほとんどありませんでしたが、これへの対応のために、攻撃隊につけてやる護衛戦闘機の余裕がなくなりました。また、攻撃隊航空機の兵装転換作業も完了していませんでした。さらに0450頃から、先に発進したミッドウェー攻撃隊が空母上空に帰投し始めていたのです。
・ 第一機動隊司令部はジレンマに直面していました。すなわち、米空母に対する「攻撃隊の発進準備を急ぐために、それらの飛行機を甲板上に並べれば、ミッドウェー攻撃隊の着艦が遅れて、燃料不足で不時着水するものも出てくる。そうかといって、ミッドウェー攻撃隊を収容してから、敵機動部隊に向かう攻撃隊を準備すれば、その発進は著しく遅れることになる」のでした。
・ これまでの米軍機の攻撃ぶりからみても、攻撃隊発進が遅れて、その間に敵空母艦載機の攻撃を受けたとしても、これまで同様十分撃退しうるものと考えられました。さらに、索敵機の報告位置から考えて敵機の来襲までには、まだ時間的余裕があるものと判断されました。そして、ミッドウェー攻撃隊をまず収容し、その後に第二次攻撃隊を発進すべきであると源田参謀は南雲司令長官に進言し、長官もそれを受けることになったのです。
・ すなわち、空母上空に帰投したミッドウェー攻撃隊の残り燃料や被弾を考えて、まずこれを収容し、米空母に対する攻撃隊の兵力を整え十分な護衛戦闘機をつけた上で、一挙に敵空母部隊を撃滅する方針をとったのです。そして、その準備ができるまでの間、機動部隊を北上させ、米機動部隊との間合いをつめようとしたのでした。
加賀、赤城、蒼龍の被弾
・ 第1機動部隊ミッドウェー攻撃隊と上空警戒機は、0618までほぼその半数が各母艦に収容されました。ちょうどこの頃、米機動部隊から発進した雷撃機隊が第一機動部隊上空に到達し攻撃に移りました。
・ この米空母機による攻撃は、日本側が予想したものより早いものであり、多数の航空機を収容し艦内が混乱しているさなかの最悪のタイミングで攻撃を受けることになってしまいました。しかし、上空警戒機の活躍と、米軍機の技量拙劣のために多数が撃墜され、さらにたくみな操艦回避運動によって、幸いにも艦艇に対する損害はほとんどありませんでした。
・ 0723頃、第一機動部隊の各空母は、米空母雷撃機隊の攻撃に対処するための回避運動に従事し、上空警戒機もこれに対処するために大部分が低空に降りてきていました。丁度この時、高高度より米空母爆撃機隊が接近してきたのです。これは先に「エンタープライズ」から発進した爆撃機隊であり、雷撃機隊とほぼ同じ頃発艦しながらバラバラに進撃したため回り道をして、遅れて第一機動隊上空に達することになったのでした。
・ さらに引き続いて、「エンタープライズ」攻撃隊より1時間遅れて発進した「ヨークタウン」爆撃機隊がこの攻撃に合流することになり、第一機動部隊の「加賀」「赤城」「蒼竜」の三空母は、相次いで急降下爆撃による奇襲を受けるに至りました。
・ すなわち、0723頃「加賀」が9機の攻撃を受け四弾命中、0724頃「赤城」が3機の攻撃を受け二弾命中、0725頃「蒼竜」は12機の攻撃を受け三弾命中し、いずれも大火災となりました。このとき各空母は攻撃準備中であり、各機とも燃料を満載し、搭載終了あるいは搭載中の魚雷や爆弾が付近にあり、艦内は最悪の状態でした。これによって、第一機動部隊は四隻中三隻の空母を失うことになるのでした。
山口司令官の意思決定
・ 第一機動部隊旗艦「赤城」の被弾・炎上により、南雲司令長官は軽巡洋艦「長良」に旗艦を移し、0830、指揮権の所在を示す将旗を掲げました。この間、第一機動部隊の空母の中で唯一生き残った「飛竜」が、反撃を開始することになります。
・ 「飛竜」座乗の山口第二航空隊司令官は、上級司令官の命を待たず独断で、ただちに米空母攻撃を決意し、0750、「全機今ヨリ発進敵空母ヲ撃滅セントス」と報告し、間合いをつめるため米機動部隊へ向かって接近したのでした。
・ 山口司令官は、とりあえず発進準備が終っている艦上爆撃機だけで攻撃を実施することにし、準備の間に合った艦上戦闘機すべてを護衛につけ、0758には、第一次の攻撃隊を「飛竜」から発進させました。さらに、来襲機数などから見て米空母は二隻程度と判断しましたが、とりうえず所在を確認している米空母の攻撃隊収容直後を、のがさず攻撃しようと考えたのでした。すなわち、米機動部隊の第二次攻撃の準備が間に合わない好機に反撃しようとしたのです。
・ 「飛竜」爆撃隊は0900頃「ヨークタウン」上空に達し、0908から0912にかけて攻撃を実施しました。戦闘機による防空戦闘と耐空放火の中、8機が攻撃に成功しそのうち3弾が命中、「ヨークタウン」は大火災となりました。
・ 「ヨークタウン」の被弾炎上により、第17機動部隊のフレッチャー司令官は、1024頃その旗艦を軽巡洋艦「アストリア」に移しました。しかしながら、「飛竜」攻撃隊の受けた被害も大きかったのです。
・ 第一次の攻撃隊を発進させた後、「飛竜」はただちに第二攻撃隊の準備を急いでいました。すると、第一攻撃隊の戦果が報じられた後になって、別の米空母機動隊発見の報告が索敵機から入りました(0920)。
・ 山口司令官は、第二次攻撃をこの新たに発見された空母に対して行うことにし、使用可能全兵力を集めて、1031、第二次攻撃隊を発進させました。この後、帰投した第一次攻撃隊が収容されましたが、その数は発進時の三分の一にすぎませんでした。
・ 少数の艦上攻撃機を中心とする第二次攻撃隊は、「飛竜」を発艦して目標へ向けて進撃の途中、米空母を発見します。この米空母は炎上中でなかったため、さきに第一次攻撃隊が攻撃したものとは別のものであると判断しました。しかし、これは「ヨークタウン」でした。
・ 「飛竜」第二次攻撃隊は戦闘機による防空戦闘と対空砲火のなか、1145頃数機が雷撃に成功、魚雷二本を「ヨークタウン」に命中させました。同艦はこれにより傾斜し、動力系故障のため復元できず、復旧の見込みがないまま1155総員退去が命令されました。
・ これより先、第二次攻撃隊を発進させた直後、日本側は偵察機などの情報から米空母は実際は三隻でしたが、残る米空母は一隻になったものと南雲司令長官は判断しました。すなわち、同一空母を二度にわたって攻撃したとは知らずに、第一次、第二次攻撃隊、都合二回の戦果報告から、米空母三隻中の二隻が戦闘不能になったものと考えたのです。
・ ここから米軍側の反撃が開始されることになります。「ヨークタウン」が「飛竜」攻撃隊によって被弾し、旗艦を「アストリア」に移動させた後も、フレッチャーは偵察機を発進させて残る第四の空母を捜索させていたのです。
・ そうしたところ、1130になってようやく「ヨークタウン」索敵機が日本空母を発見し、この報告は「飛竜」第二次攻撃隊の攻撃を受けているさなかにフレッチャーに届きました。自己の空母「ヨークタウン」を失ったフレッチャーは、以後の航空作戦指揮を第16機動部隊のスプルーアンス司令官にゆだね、スプルーアンスはただちに全力で残り一隻の日本空母を攻撃することを決意し、そして、1230には「エンタープライズ」、次いで1303には「ホーネット」から第二次攻撃隊を発進させたのです。
・ 一方、それとは知らずに「ヨークタウン」対する二回目の攻撃を行なった「飛竜」第二次攻撃隊は、「飛竜」上空に帰投し1245に収容されました。第二次攻撃隊の受けた損害も大きいものでした。第二次攻撃隊を発進させた直後、米空母は三隻であったことを確認した山口司令官は、第三の空母に対する第三次攻撃隊の準備を急いでいました。
・ しかし、第一次、第二次の二回にわたる攻撃隊はほぼ予期どおりの結果をもたらし都合二隻の空母を撃破したものと判断されましたが、攻撃隊の受けた損失も予想以上に大きいものでした。このため山口司令官は、これまでの米軍側の防空戦闘や対空砲火から見て、この貧弱な兵力では攻撃を成功させることはできないと判断、少数兵力でも確実な効果を得るために、攻撃に有利な薄暮まで待つことにしました。
閉幕-全空母喪失と作戦の中止
・ 「エンタープライズ」「ホーネット」を発進した攻撃隊は、1345頃「飛竜」を発見しました。このとき、日本海軍第一機動部隊は唯一の残存空母「飛竜」を中心に輪形陣をとり、対空警戒を厳にして薄暮攻撃に備えている最中でした。薄暮攻撃を行なう第三次攻撃隊は1500発進の予定であり、それまでにはまだ約1時間ありました。
・ 日本側は米空母機来襲を予想し、上空警戒機を発進させて備えていたにもかかわらず、今回の攻撃もまた奇襲となりました。すなわち、太陽を背にして急降下してきた爆撃隊の攻撃により、1403, 四発の爆弾が命中、「飛竜」は炎上し飛行甲板が使用不能となってしまいました。
・ この時点で、日本海軍第一機動部隊は艦隊航空決戦の主役である四隻の空母すべてが戦闘不能となり、事実上、作戦遂行能力を失うに至りました。また、さきに被弾し戦闘不能となった三空母のうち、「蒼竜」「加賀」は、1610頃から1625頃にかけて相次いで誘爆、沈没しました。
・ その後、山本連合艦隊司令長官は、夜戦によってミッドウェー攻略の目的を達成することも検討しましたが、最終的に兵力を終結して戦場を離脱することを決意し、2355にミッドウェー攻略作戦は中止を下命されたのでした。
・ なお、「赤城」「飛竜」は翌日になってから処分されました。一方、「ヨークタウン」は行動不能になり総員退去の後ハワイへ向け曳航中のところを、7日になって日本軍潜水艦によって発見され魚雷攻撃を受けて沈み始め、翌8日夜明けにその姿を海面から消したのでした。
作戦目的の二重性や部隊編隊の複雑化などの要因の1部ではありますが、日本軍の失敗の重大なポイントになったのは、不測の事態が発生したとき、それに瞬時に反応できたか否にありました。
(1) 作戦目的の二重性
ミッドウェー作戦の真のねらいは、ミッドウェーの占領そのものではなく、同島の攻略によって米空母群を誘い出し、これに対し主動的に航空決戦を強要し、一挙に捕捉撃滅しようとすることにありました。ところが、この米空母の誘出撃滅作戦の目的と構想を山本は第一機動部隊の南雲に十分に理解・認識させる努力をしませんでした。ここに、後世に至って作戦目的の二重性が批判される理由があります。南雲に対してのみならず、軍司令部に対しても、連合艦隊の幕僚陣に対してすらも、十分な理解・認識に至らしめる努力はなされなかったのです。したがって、ミッドウェー攻略が主目的であるかのような形になってしまいました。
(2) 部隊編成の複雑性
ミッドウェー作戦の目的である米空母群の誘出撃滅は、山本の航空決戦思想に基づくものであるあったが、作戦部隊の編成は、旧来の艦隊決戦思想に由来する漸減遊撃作戦を前提としたものであり、ここに大きな矛盾がありました。というのは、山本の企図を生かそうとすれば、空母を基幹とする機動部隊主体の編成でなければならないはずであったからである。
(3) 不測の事態が発生したときの対応
最も重大な錯誤は、米空母はミッドウェー付近に存在しないであろうという先入観にとらわれていたことです。そして、奇襲対応のための予備兵力の控置をせず、四隻の空母すべてからミッドウェーに対する攻撃を行なったことであす。所要の航空兵力は、米機動部隊の存在の可能性備えて控置しておくべきでした。また、米空母の存在を確認したら、護衛戦闘機なしでもすぐに攻撃隊を発進させるべきでした。航空決戦では先制奇襲が大原則なのです。このタイミングを失したためにとりかえしのつかないことになってしまったのです。
ミッドウェー海戦では、作戦目的の二重性や部隊編成の悪雑性などの要因のほか、日本軍の失敗の重大なポイントになったのは、不測の事態が発生したとき、それに瞬時に有効かつ適切に反応できたか否か、でした。皆さんはどう思われますか。