失敗の本質(その7)…ガダルカナル作戦に学ぶ教訓

 ミッドウェー、ガダルカナルは、良く知られているように、それぞれ大東亜戦争における海戦と陸戦のターニング・ポイントでした。それまで順調に軍事行動を進ませてきた日本は、この二つの作戦の失敗を転機として敗北への道を走り始めたのです。今回紹介するガダルカナル作戦での失敗の原因は、情報の貧困と戦力の逐次投入、それに米軍の水陸両用作戦に有効に対処しえなかったからです。日本の陸軍と海軍はバラバラの状態で戦ったのです。

 まずは、日本海軍と陸軍において大東亜戦争に対するグランドデザインに相違があったことをはっきりと認識すべきであるように思います。

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 開戦前海軍は、遊撃作戦を基本とし、積極的に進攻して米主力艦隊と決戦を求める意図はありませんでした。しかし、第一弾作戦での真珠湾奇襲の成功によって、第二弾作戦は積極的進攻による敵艦隊の各個撃破へとその方針を転換しました。そして、海軍は、当初計画になかったハワイおよびオーストラリアの攻略を主張するに至ったのです。

 一方、元来大陸戦略構想をもつ陸軍は、持久戦略をその基本としていました。つまり、積極的に太平洋地域に打って出るよりも、インド方面作戦で英国を倒し、中国を単独に屈伏させ、既存の占領地域の完全なる確保を主とする戦略を考えていました。従って、海上4000カイリ離れたオーストラリアまで進出することには、兵站の点からも困難であるとして反対しました。これは、陸海軍の用兵思想の差から当然のことでした。

 しかし陸軍は、オーストラリアが米軍の対日反攻作戦発動の最大の拠点となる可能性を否定せず、南方作戦の大成功に調子づけられて、米豪遮断作戦の必要性に同意して準備に着手しました。その結果、陸海軍部で妥協した要地獲得の目標は、ニューカレドニア、フィジー、サモア(FS作戦)、ならびにポートモレスビー(MO作戦)となりました。

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 一方、米軍はミッドウェー海戦後、初めてイニシアチブをとり、日本軍の進出を抑える時期を迎えたのです。そして、成功が比較的に容易で大損害を避けうる、ステップ・バイ・ステップの上陸作戦を敢行することになりました。そしてその反攻の第一段が、日本軍の米豪連絡船に対する進攻企図を未然に撃破すべく、この作戦は加速化されたのです。元来、米国の対日戦略の基本は、日本本土直撃による戦争終結にありました。但し、中部太平洋諸島の制圧なくしては、米軍の対日進攻はありえないし、航空機の前進基地確保は困難でした。米軍は、このような長期構想のもとに、大本営の反攻予測時期より早く、日本軍の補給船の伸びきった先端、ガダルカナル島を突いてきたのです。

戦局の推移

第一次ソロモン海戦

1942年
8月7日、米軍がガダルカナルとツラギ島へ上陸したという第一報が入ります。
8月8日、ガダルカナル島に無血上陸したものの、この作戦に悲観的だったフレッチャー提督は、8月8日日本機の来襲に危険を感じて第61機動部隊を補給品を半分しか陸揚げしないまま、撤退させてしまいました。
8月9日、三川軍一海軍中将の第8艦隊が米豪巡洋艦部隊と交戦し、5重巡のうち4撃沈、重巡1駆逐艦1損傷という大打撃を与えました。このときルンガ沖の米輸送船団は、まったくの無防備となりました。三川艦隊が攻撃を続行し輸送船団を撃破していたならば、ガダルカナル戦の形成は変わっていました。         
8月10日、大本営はわずか2000人の一木支隊を第17軍の指揮下に入れてガダルカナル島の奪回を命じました。

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一木支隊急行

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8月18日、駆逐艦6隻に分乗した一木支隊先遣隊900人は、満々たる自信をもって、当日夜一兵も損なわずに、米軍陣地から約30キロ離れたタイポ岬に上陸しました。
8月19日、午前中には先遣隊は、ベレンデ川の線に到着しました。同日午後2時30分に34人の尖兵小隊は、待ち伏せしていた敵兵に突如包囲され、ほとんど殲滅されました。

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8月21日、未明、一木大佐は主力をイル川河口の砂州を越えて突撃を起こしますが失敗します。一木大佐はすでに打つべき手段もなくなったと感じて午後3時頃、軍旗を奉焼して自決して果てます。部下の将兵の大部分も支隊長に従ってそこで壮烈な戦死を遂げました。


 このガダルカナル島第一戦の勝利は、米海兵隊に大きな自信を与えることになりました。米軍の戦史は、このテナル戦闘史の結論に、”From that time on, United States Marines were invincible”「このとき以来、アメリカ海兵隊は向かうところ敵なし」と書いたのでした。

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第1回総攻撃

8月20日、米軍は日本軍のつくった飛行場を20日から使用し始めました。
8月24日、日本連合艦隊は、米機動部隊を鎮圧すべく出動し、ここに「第2次ソロモン海戦」が起ります。結果は、米航空母艦「エンタープライズ」大破、日本側は空母「竜驤」沈没。そして、一木支隊第二梯団を護衛していた第二水雷戦隊の一部は損害を受け、西北方に退避します。

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8月29日~9月4日、夜間高速を利用した駆逐艦による逐次連続輸送、すなわち「ねずみ輸送」によって、国生勇吉少佐の第一大隊、渡辺久寿中佐の第三大隊、一木支隊の残兵から成る1個支隊、青葉支隊から来援した田村昌雄少佐の一個大隊の計4個大隊で構成される川口支隊は、タイポ岬付近に上陸を終えました。これと並行して、岡明之助大佐の指揮する1個大隊は、30隻の大発をつなねる「アリ輸送」で西側のエスぺランス付近に上陸しました。
9月7日、陸軍5,400人、海軍200人、高射砲2門、野砲4門、連隊砲6門、速射砲14門、糧食は約2週間分ほどを揚陸させました。
9月13日、午後9時5分、わずかに残ったテナル河畔からの5発を合図に、川口支隊の総攻撃が開始されました。
9月14日、田村大隊長は、天明とともにいぜん攻撃を続行すべく各中隊との連絡に勤めたが、各所に分散しているため掌握は困難を極めました。間もなく、川口支隊長の攻撃中止命令が伝達されてきました。
9月15日、川口支隊長は、敗退を軍司令部に打電するに至り、川口少将の主力は敗れて退きました。攻撃参加主力約3,000人、生存者約1,500人。

第2回総攻撃

 計画:今回の総攻撃計画は、少なくともこれまでの夜間奇襲と異なる堂々たる正面作戦となります。輸送の予定は、第2師団を主力とする歩兵約17,500人、火炎砲176門、弾薬0.8会戦分、糧食25,000人の30日分でした。そして必勝を期していた第17軍は、ガダルカナル島奪回に引き続き、ラビおよびモレスビーの攻略を行なう予定でした。

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10月14日、優秀船6隻からなる「ガダルカナル島突入船団」が編成され、無事タファサロング泊地に投錨しました。ところが戦力資材の揚陸作業を行なっていたまさにそのときに、艦爆大編隊が飛来し、その攻撃を受け大きな被害を受けました。
10月15日、このような状況下で、当初の大なる火力をもってする正攻法を180度転換させて、前回の川口少将の行ったジャングル迂回の夜間奇襲攻撃を再度敢行することに決したのです。まず、右翼隊長川口少将は、第2師団命令を受領すると、「右翼隊の信念」と題する印刷物を部下に配布し、この攻撃の特性を徹底させます。
10月19日、川口少将は総攻撃直前に正面攻撃拒否により右翼隊長を罷免となります。
10月24日、夕刻より第2師団はいよいよ夜襲を開始しました。
10月25日、朝を迎えて、師団の損失は大であるが、第29連隊が敵陣に突入している状況を確認し、同夜全力をあげて再度の夜襲をする命令を下達しました。しかし、攻撃は敵の第一線陣地を突破することなく頓挫しました。
10月26日、黎明前、第2師団田口参謀は、この状況をもってしては、陣地突破は望みえない旨師団長に報告しました。第17軍司令部は午前6時、攻撃中止の命令を発しました。かくして、複雑な経緯を伴ったガダルカナル島の第2回総攻撃もあえなく潰えました、

 ガダルカナル島に投入された将兵は、約32,000人でしたが、そのうち戦死は12,500人余、戦傷死は1,900余人、戦病死は4,200余人、行方不明は2,500人に上った。これに対し、米軍の犠牲は戦闘参加将兵60,000人のうち戦死者は1,000人、負傷者は4,245人を数えるだけです。

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 ガダルカナル作戦失敗の原因は
(1) 情報の貧困と
(2) 戦力の逐次投入
(3) 米軍の水陸両用作戦に有効に対処しえなかった日本軍
(4) バラバラの状態で戦った日本陸軍と海軍
があげられます。

(1) 情報の貧困

 本来的に、第1線からの積み重ねの反復を通じて、個々の戦闘の経験が戦略・戦術の策定に帰納的に反映されるシステムが生まれていれば、環境変化への果敢な対応策が遂行されるはずでした。しかしながら、第1線からの作戦変更はほとんど拒否されましたし、したがって第1線からのフィードバックは存在しませんでした。

 一方、大本営のエリートも、現場に出る努力をしませんでした。攻撃するごとに潰滅状態に陥ったガダルカナル島の実情は、かつて日本陸軍が経験したことのない惨憺たる状況でした。6,000kmの海洋を隔てた東京の机上ではとうてい想像のできない情景であったのです。若干の幕僚が現地に進出して、実情を報告しても、首脳者はその真相を把握することはできなかった訳です。用兵の高級責任者自ら現地に少なくともラバウルまでは進出して第1線の実情を把握する必要があったと思われます。

(2) 戦力の逐次投入

 陸・海・空が組織的に統合され、共同目標に対し整合的に攻撃力を集中させるためには、情報運用体制の整備と、完成度が高く高性能な通信システムの整備が必要であり、米海兵隊はそれらをよく整備していたといえます。

 これに対し日本側は、各組織単位の間で有効な通信システムの整備がなされていないため、堅実な情報運用と攻撃を機動的に行なえず、共同目標も存在しませんでした。そのため、陸軍と海軍がバラバラの状態で戦い、空、海戦力を短時間的、間歇的に投入していました。補給にしても、所要量の3分の1内外を輸送しえたにすぎませんでした。

(3) 米軍の水陸両用作戦への対応

 日本軍は、米軍が海兵隊を中心として水陸両用作戦を展開して、太平洋正面から直接本土に向って進攻してくることを夢想だにせず、危機は太平洋方面よりは極東ソ領およびインド、中国方面にあると考えていました。一方、海軍は米艦隊主力をソロモン海付近に求め、その撃滅を図ったうえで戦争終結への方途を考えようとしていたのであり、航空基地たるガダルカナル島奪回をこの主力決戦を成功させる条件とみなしていました。

 しかしながら、海軍も米軍が陸・海・空統合の水陸両用作戦を開発していたことは、まったく予期しておらず、太平洋諸島の攻防をいかにすべきかについてもほとんど研究をしていませんでした。このように日本軍は戦略デザインと現状認識しかなかったために、陸・海・空統合作戦がなされなかったのはもちろんのこと、一木支隊、川口支隊、青葉支隊、第2師団、第38師団という戦力の逐次投入が行われたのみでした。

*師団…6,000人~2万人。2~4個連隊または旅団。師団長は少将~中将

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 米軍の水陸両用車を装備した新部隊は南西諸島が侵攻された際、戦闘地域から数キロメートル離れた海域から上陸部隊を進発、戦闘部隊を揚陸させ島嶼部の確保を図ることを目的に編成されました。水陸両用戦隊(PHIBRON)とは、水陸両用作戦を実施する上で、人員及び装備を輸送するための戦術編成であり、通常4万トン級の水陸両用強襲揚陸艦(Amphibious Assault Ship: LHA、LHD)1隻、2万トン前後のドック型水陸両用輸送艦(Amphibious Transport Dock: LPD)1隻、1万トン級のドック型揚陸艦(Dock Landing Ship: LSD)1隻の3隻で編成されています。

(4) バラバラの状態で戦った日本陸軍と海軍

 帝国陸軍の戦争終末観は、主力を中国大陸に置き重慶攻略作戦によって、米国を中心とする連合軍に対抗して、日本の不敗態勢を確立することでした。したがって、主要攻略地域は重慶・インド洋方面であって、南太平洋方面では、米・豪間の海上支援交通遮断のために、主力はラバウルとニューギニア東部にあり、海軍のソロモン海域への作戦をなんら重要視するものではありませんでした。当時、日本軍中枢部にはガダルカナルの名さえなんらの関心も持っていなかったのです。しかも、米軍の反攻のあり方については、深く研究もしていませんでした。

 陸軍における兵站線への認識には、基本的に欠落するものがありました。すなわち補給は敵軍より奪取するかまたは現地調達をするというのが常識的ですらありました。海軍における主要目的は米国海軍機動部隊撃滅であり、本来的には補給物資輸送の護衛等に艦艇を供しようとするものではありませんでした。

 日本軍の失敗の原因は、情報の貧困と戦力の逐次投入、それに米軍の水陸両用作戦に有効に対処しえなかったからです。日本の陸軍と海軍はバラバラの状態で戦いました。皆さんどう思われますか。



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