失敗の本質(その8)…インパール作戦に学ぶ教訓

 インパール作戦は、大東亜戦争遂行のための右翼の拠点たるビルマの防衛を主目的とし、昭和19年(1944年)3月に開始されました。この作戦は、しなくてもよかった作戦であり、戦略的合理性を欠いていました。この作戦がなぜ実施されるに至ったのか、作戦計画の決定過程に焦点を当て、人間関係を過度に重視する情緒主義や強烈な個人の突出を許容するシステムを明らかにします。

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東部インド進攻作戦構想

 インド進攻作戦の構想は、ビルマ攻略作戦が予想以上に早く終了した直後から存在しました。当時南方軍は、ビルマ攻略の成果とその余勢を駆って、インド国内情勢の動揺に乗じて東部インドへの進撃を企図しました。

昭和17年(1942年)8月下旬

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 蒋介石政権の屈服と英国の脱散によって終戦の機をつかもうと考えていた大本営は、この南方軍の意見具申を容れて21号作戦(東部インド進出作戦)の準備を指示しました。しかし現地では、ビルマ防衛の任にあたる第15軍、その隷下で21号作戦の主力に予定された第18師団(師団長牟田口簾也中将)がこの作戦に不同意を唱えました。理由は、
(1) 5月末から9月末までに及ぶ雨季には降水量が8,000~9,000ミリに達し、その間の作戦行動は不可能であること、
(2) 乾季に作戦を実行するとしても、作戦の地域たるインド・ビルマ国境地帯は、峻険な山系(ジビュー山系およびアラカン山系)が南北に走り、チンドウィン河などの大河も作戦行動にとっての一大障害であること
(3) しかもジャングルが地域一帯をおおい、当然交通網も貧弱で、人口も希薄なため食糧などの徴発も難しく、さらにそのうえ、そこは悪疫承瘴癘(アクエキショウレイ)の地であったこと
*悪疫瘴癘…特殊な気候や風土によって起こる悪性の伝染病

昭和17年11月

 大本営は21号作戦の実施保留を南方軍に指示します。ただし、これはあくまで保留であって、作戦取り消しを明確に命じたものではありませんでした。

ビルマ情勢の変化
 
昭和17年10月~昭和18年2月

 戦争全体の悪化にともない、ビルマをめぐる情勢も日本にとって憂慮すべき方向に変化し
ました。
(1) 連合軍のビルマ奪回のための準備が徐々に本格化するきざしを示した。
(2) 昭和17年10月以降、ビルマ上空の制空権も連合軍の側に握られていることが明瞭となった。

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(3) 昭和18年2~5月、ビルマ北部への遠距離挺進作戦を敢行したウィンゲート旅団の北ビルマ侵入作戦によって、空挺挺進部隊の有効性が確信されたことです。

*空挺挺進作戦…兵員を高速で長距離移動させたり、敵の背後に部隊を展開させることを目的として、飛行中の輸送機から兵員が落下傘降下すること。

昭和18年3月下旬

ビルマをめぐる情勢の変化と攻略的見地から、日本軍は予想される連合軍の総反攻に対処すべくビルマ防衛機構の刷新強化の措置をとりました。
(1) ビルマ方面軍が新設され、方面軍司令官には河辺中将が就任
(2) その隷下に第15軍が入って軍司令官には牟田口中将が昇格

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(3) 北部および中部ビルマの防衛・作戦指導は第15軍に任せ、
(4) 方面軍はアキャブの第55師団を直轄として、ビルマの独立準備や対インド工作など政戦略全般にあたる
などです。

 この防衛機構の再編成において注目されるのは、従来の第15軍の幕僚陣の大部分が、方面軍司令部要員に充当されたため、第15司令部でビルマ情勢に通じる者は、牟田口軍司令官だけとなってしまったことです。しかも第15軍は、司令部編成完了と同時にウィンゲート旅団掃蕩戦の渦中に巻き込まれ、新任の幕僚陣には戦況全般を研究する余裕が与えられませんでした。結果、第15軍は牟田口軍司令官1人のイニシアチブによって切り回されて行きます。つまり、インパール作戦の決定に至る過程は、牟田口中将を軸として展開されていくのでした。

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昭和18年4月下旬

 第15軍初の兵団長会同がもたれ、ここで牟田口中将は隷下の師団長たちに初めてインド侵攻論を披露しました。一同は唖然とするばかりでした。部下の反論に耳を貸さない牟田口司令官の積極論を現地で制止しうるのは、河辺方面軍司令官のみでした。しかも、河辺は盧溝橋事件当時、連隊長牟田口の直属の上司たる旅団長であり、それ以来両者はともに親しい間柄でしたので、ここで敢えて制止することはしませんでした。

昭和18年5月上旬

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 シンガポールの南方軍司令部でも軍司令官会合が開かれました。ここでも牟田口中将はインパール進攻論を力説するとともに、河辺もアラカン山系への防衛線推進を主張して彼の議論を助けました。ただし、河辺の牟田口構想に対する同調も、アラカン山系への進出にとどまり、彼ですら、牟田口のアッサム侵攻論には無謀な作戦として不同意でした。

昭和18年6月下旬

 方面軍主催の兵棋演習が実施されました。これは、南方軍が攻勢防御の必要性を強めながらも、インパール作戦の具体的計画に関しては兵棋演習による十分な検討を必要とするとの要請の下におこなわれたものです。

*攻勢防御…敵の計画した戦場で戦わず、敵の意図した戦い方をさせず、我が方の計画した戦場で戦い、我が方の意図した戦いによって戦場の主導権を発揮するもの。

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 検討の結果、ミンタミン山系内に防衛進出線を制限しても英印軍の反撃に遭遇して会戦を引き起こすことは必至と判断され、したがって、むしろ当初から敵の策源地インパール攻略を作戦目的にすべし、との結論が出されました。

 ところが第15軍の作戦計画は、アラカン山系内の敵を急襲撃破して一気にアッサム州に進出することを目標とし、そのため南方および東方から第15師団および第33師団をもって北方のコヒマを攻略し、敵の退路を遮断するのみならず、アッサム進出へと移行しようとするものでした。

昭和18年8月下旬

 8月下旬に開かれた第15軍の兵団長会同にても列席した中方面軍参謀長は、第15軍の作戦構想が少しも改められていないことを知ったにもかかわらず、敢えて異論は唱えず、その鵯越作戦を黙認しました。これはアッサム進攻の企図を秘め、北方に重点を指向して敵を急襲撃破するという作戦で、作戦上多くの問題点を含んでいました。

昭和18年10月下旬

 稲田中将南方軍総参謀副長は転出して、その後任に綾部中将が就任し、彼のもとで南方軍も第15軍の作戦計画を黙認する方向に傾いて行きます。

昭和19年1月7日

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 大本営は「ウ号作戦」の決行を承認します。第15軍の「ウ号作戦」計画(鵯越戦法)は、戦略的急襲を前提として成り立っていました。すなわち、急襲突進によって敵に指揮の混乱と士気の粗相を生ぜしめ、それに乗じて一気に勝敗を決しようとするものであり、急襲の効果が生じなかった場合は、作戦の転機を正確に把握し、完敗に至る前に確実な防衛線を構築して後退作戦に転換するための計画、すなわちコンティンジェンシー・プランが必要であるはずでした。ところが、実は、この必要性の認識こそが、第15軍の作戦計画にまったく欠如していたものでした。

 第15軍は、作戦期間を3週間と予定していましたが、客観的に見て、厳しい地形を克服し、3週間でインパールを攻略するのは極めて困難でした。

 第15軍の鵯越戦法、急襲突進戦法の効果は、戦う以前にすでに失われていました。というのは、スリム中将指揮下のイギリス第14軍が、斥候や空中偵察によって日本軍の作戦準備状況をキャッチし、インパール作戦の概要をほぼ正確に掴んでいたからです。これに基づいてスリム中将は、主力の戦場を放棄し、後退作戦に転換しました。すなわち、日本軍に困難なアラカン山系越えを強いて行わして疲れさせ、その補給線が伸びきったインパール周辺地区で主力攻撃を加える、というのがスリム中将の新たな作戦構想でした。

 第15軍が敵の企図を少しもつかめなかったのに対し、英印軍はまず、事前の情報戦において勝利を収めていました。戦略的急襲の効果は生まれるはずもありませんでした。

昭和19年2月初旬

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 2月初旬に開始された第2次アキャブ作戦(ハ号作戦)でも、日本軍(第55師団)は予期せざる苦戦に陥いりました。敵は包囲されても優勢な火力で円筒陣を構築し、空中補給によって抵抗を続けるばかりでなく、その間に駆け付けた支援軍は日本軍部隊を逆包囲する形となりました。このような新戦法は、日本軍を大いに驚かせはしましたが、第15軍はその教訓を十分学ばず、インパール作戦においても至る所で円筒陣地に苦しめられることとなりました。



昭和19年3月初旬

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 インパール作戦決行直前、北ビルマに敵の空挺挺進部隊が再び降下し始めました。第15軍は当初その兵力も目的もつかめず、牟田口中将はこれを単なる後方攪乱作戦とのみ判断しました。しかし、実際には、この新たなウィンゲート兵団は3個旅団もの規模を有し、単なる後方攪乱のみならず、第15軍のインパール作戦の虚を衝いて北部および中部ビルマ一帯から日本軍を一掃しようとしたものでした。

昭和19年3月

 苦しい状況でありましたが、インパール作戦が、大東亜戦争遂行のための右翼の拠点たるビルマの防衛を主な目的とし、開始されました。

昭和19年4月末

 スリム中将の後退作戦によって、第15軍の戦略急襲の効果は生まれませんでした。敵戦力の過小評価、突進優先による火力の劣勢、補給の軽視などにより、敵の堅固な円筒陣地攻略には限度がありました。参加各師団は3週間の糧秣しか携行せず、弾薬の追走もほとんどないまま、4月末には戦力40%前後に低下し、限界に近付いてきました。しかも雨季は例年より早くやって来ました。

昭和19年6月上旬

 河辺方面軍司令官が第15軍の戦闘司令所に牟田口中将を訪れ、すでに作戦中止は不可避であることをほのめかしました。

昭和19年7月2日

 大本営の認可を得た南方軍は、インパール作戦中止を方面軍に命じたのです。河辺方面軍司令官によれば、作戦中止を考え始めてから2ケ月を経過していました。

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 インパール作戦の失敗は、ビルマ防衛全体の破綻を招きます。フーコンでも雲南でも敵の反攻の前に日本軍は敗走を重ねなければなりませんでした。そして日本は、インパール作戦中止と相前後してサイパンを失い、やがてその責任をとって東条内閣も総辞職しました。ただし、インパールからの悲惨な撤退はまだ続いていました。

 1人の人間に操られてしまったこのインパール作戦、皆さんどう思われますか。



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