日本外交の目指す方向(その3)…中国との尖閣諸島問題と朝鮮との竹島問題

 昨今、日本は中国や韓国からのいわれなき「歴史認識」に関する反日プロパガンダ等の攻撃を受けています。これらの攻撃に対応するには、まず1人ひとりの日本人が歴史の事実や国民性の違いなどについて、「十分な知識を身に付けたうえで、相手の主張は理不尽な言いが掛かりに過ぎないという確信を持つことが重要だ」と言われています。

 中国からの攻撃の中には「尖閣諸島問題」が、韓国からの攻撃の中には「竹島問題」が出て来ます。これらは明治政府の外交とも大きく絡みますので、今回、明治時代に経験した日清戦争(1894~1895年)や日露戦争(1904~1905年)と合わせて考えてみたいと思います。

 以下、年表を参考にしながら追って行きます。

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 明治明治政府の外交における基本的な政策は、幕末に幕府が締結した不平等条約の撤廃と帝政ロシアの南下政策に対抗することで、日本の植民地化を阻止しようとするものでした。その中まず、明治政府は日本の領土の画定を急ぎました。

1867年(明治元年):明治維新でこれまで200年以上続いた日本の鎖国政策は終了し、日本は国際社会の荒波に巻き込まれることになります。
1871年(明治4年):清との間で相互に対等の地位を認めた日清修好条規を結びます。
1875年(明治8年):ロシアとの間に、日本がウルップ島以北の樺太を譲るという樺太・千島交換条約を結びました。
1876年(明治9年):朝鮮に不利な日朝修好条規を認めさせ、小笠原諸島を日本の領土とすることを各国に通告しました。
1879年(明治12年):琉球の沖縄県制定を行いました。

 こうして日本の領土がほぼ確定しました。ここまでが第一幕です。

日清戦争の勃発

 1876年日本が朝鮮と日朝修好条規(不平等条約)を結んだ後、日本は朝鮮を支配するきっかけを掴もうとしつつ、やがて中国への進出も窺う様になりました。

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 1894年(明治27年)に、朝鮮で東学を信じる人々が農民と結び、外国勢力の追放と政治改革を目指して兵を挙げました。これが甲午(コウゴ)農民戦争です。朝鮮政府が清に出兵を求めると、戦争の準備をしていた農民軍は、外国の干渉を避けるため、政治改革を条件に政府と休戦しました。その際、朝鮮政府も日清両軍に引き上げを要求しましたが、両軍は聞き入れませんでした。むしろ日本は、これを機にイギリスの支持を期待して朝鮮から清の勢力を除こうとして戦争を始めました。これが日清戦争(1894年~1895年)です。戦争は日本軍の勝利に終わり、翌年の1895年下関で講和会議が開かれました。

 1895年の講和会議で結ばれた下関条約では、清は朝鮮の独立を認めること、遼東半島・台湾などを日本に譲ること、巨額の賠償金を支払うこと、清が欧米諸国と結んでいた不平等条約を日本とも結ぶこと、などが決められました。日清戦争に勝つと、日本人のあいだに中国人を蔑む傾向が広がりました。

日露戦争への突入

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 清が日本に敗れると、1895年北からアジア進出を目指していたロシアは、ドイツ、フランスと結び、遼東半島を清に返すよう日本に強く要求しました。これを三国干渉といいます。この圧力によって日本は、清からの賠償金を引き換えに、遼東半島を清に返しました。その後日本は、清から得た賠償金などで、ロシアの南下に備えて軍備の増強に力を入れました。

 ロシアやイギリスなどは中国での勢力をさらに広げ、鉄道建設や鉱山開発の利権を手に入れ、商工業を営むために都市や港などを支配しました。その結果、外国の商品が大量に流入して中国の手工業は衰え、生活に苦しむ人が増えました。そこで、植民地を求める帝国主義諸国の侵略に反対し、中国の人々は義和団事件を起こしました。この事件は、たちまち中国北部に広がりましたが、日本やロシアなど8ケ国の連合軍に鎮められました。

 義和団事件後、ロシアは中国東北部の満州に軍隊を留め、清や朝鮮への影響力を強めました。そのため、朝鮮に勢力を伸ばそうとした日本は、ロシアとの対立を深めました。中国に多くの利権を持つイギリスは、ロシアの南下を抑えるため日本に接近し、1902(明治35)年、日英同盟を結びました。

 日本は、戦争の準備を進めながらも、満州はロシアの、朝鮮は日本の支配下に置くという交渉を行いました。しかし、交渉はまとまらず、日露戦争(1904年~1905年)が始まりました。戦争は満州を中心に行われ、両国とも多数の死傷者を出すなど、激しい戦いが続きました。また、日本海でも両国艦隊が戦い、日本軍が勝利をおさめました。しかし、戦争が長引くと、日本は資金や兵器・弾薬が乏しくなりました。ロシアでも皇帝の専制政治に反対する革命運動が起こり、両国とも戦争を続けることが難しくなりました。

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 1905年、アメリカのポーツマスで、アメリカ大統領の仲立ちにより講和会議が開かれ、ポーツマス条約が結ばれました。この条約でロシアは、朝鮮に対する日本の優越権を認め、樺太の南半分を日本に譲ることなどを認めました。ロシアが清から借りていた旅順・大連と、ロシアが満州に建設していた鉄道の一部も日本のものとしました。

 日本は、日露戦争で国の財政の3倍以上にあたる約17億円もの戦費を使い、40万人以上の死傷者を出しました。苦しい生活を我慢してきた国民は、賠償金が取れないこともあって、政府への不満を高めました。

中国との尖閣諸島問題

 さて、中国との間で揉めている尖閣諸島問題です。日本政府は、歴史的にも一貫して、尖閣諸島は日本の領土である西南諸島の一部を構成していると主張してきました。1895年(明治28年)日清戦争終結後の下関条約締結の際、日本に正式編入しています。

 1885年(明治18年)から沖縄県を通じて現地調査を行い、尖閣諸島が無人島であるだけでなく、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを確認した上で、1895年(明治28年)1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行って、正式に編入しました。この行為は先占の法理によって国際法上正当とし、なお尖閣諸島に日本が清国から割譲を受けた台湾および澎湖(ビョウコ)諸島は含まれない(1895年下関条約第2条による)としています。

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 1968年(昭和43年)の海底調査の結果、東シナ海の大陸棚に石油資源が埋蔵されている可能性があることが指摘され、1970年(昭和45年)に台湾が領有権を主張し始め、これに中国も追随しました。1969年および1970年に国連が行った海洋調査では、推定1,095億バレルという、イラクの埋蔵量に匹敵する大量の石油埋蔵量の可能性が報告されています。





朝鮮との竹島問題

 次に、韓国との間で揉めている竹島問題です。1905年、日露戦争終結後のポーツマス条約締結の際、明治政府は竹島を島根県に編入し、国際法的にも日本の領土になりました。

 竹島問題を理解するには、まず鬱陵島の歴史を知る必要があります。鬱陵島は朝鮮半島から115kmの海上にあり、島の大きさは70km2です。鬱陵島は西暦512年以来、韓国の支配下にありました。しかし、李氏朝鮮(1392年~1910年)は、鬱陵島への渡航を禁じました。これには大きく二つの理由があり、国内的には税金を逃れて島に渡るものが後を絶たなかったことと、対外的には倭控による来襲から島民を守るためでした。この無人島政策は1438年から1881年まで続けられました。

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 17世紀初頭、伯耆国米子の海運業者だった大谷甚吉が、渡航中に暴風に遭い、無人島になった鬱陵島に漂着しました。彼は、新島の発見と考え、帰国後、同志の村川市兵衛とはかり、1618年に江戸幕府(1603~1868年)から鬱陵島への渡航許可を受けます。鬱陵島はその発見から「竹島」や「磯竹島」と呼ばれるようになります。大谷、村川両家は、その後毎年交代で鬱陵島に渡り、アシカ漁やアワビの採取、木材の伐採などを行い、両家の鬱陵島経営は78年間続けられました。当時、鬱陵島へ渡るコースは、隠岐の島から松島(現在の呼び名で竹島)を中継地にしていました。大谷、村川両家は、この竹島(旧松島)の経営をも手掛けていました。竹島が航路中の寄港地、漁猟地として利用されアシカ猟を行なっていた記録も残っています。江戸幕府は松島に対する渡航許可も1656年に出しています。(注意:竹島はむかし松島と呼ばれ、鬱陵島は竹島と呼ばれていました。韓国もこの歴史的経緯・事実に対しては異論は出ていません。)

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 1905年、明治政府は竹島を島根県に編入し、国際法的にも日本の領土になりました。しかし、日本の敗戦後、GHQは竹島を沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外しました。これを口実に1952年1月18日、李承晩韓国初代大統領は海洋主権の宣言ライン、いわゆる「李承晩ライン」を設け、韓国は竹島周辺海域の水産資源を得ることになります。これが日韓の竹島問題の始まりです。

 尖閣諸島や竹島については、明治時代に日本の領有権が確立しています。歴史的認識を正しくやればやるほど、中国・韓国の主張が理不尽に思えてなりませんが、皆さんどう思われますか。



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