日本外交の目指す方向(その5)…中華人民共和国・歴代最高指導者の思惑

 日本外交の目指す方向(その1)では、明治時代に起こった日清、日露戦争の背景、および昭和時代入って起こった満州事変、日中戦争そして太平洋戦争へと突き進む背景と日本外交の概要を見てきました。今回は、1949年の中華人民共和国の成立以降、目覚ましい発展をどのように実現してきたのかを眺めてみます。下の歴史年表を参照しながら進めます。なお、中華人民共和国の政治構造は憲法に明記されているように、中国共産党が国家を指導・統率します。従って、党の最高指導者(党首)が国家の最高指導者となります。

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 1644年に中国清朝がそれまでの明朝に代って設立されました。以降1912年までの268年間続きます。ほぼ日本の徳川幕府と同時期(1603年~1868年:265年間)に栄えていました。

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 1786年に清朝では当時、習慣が広がりつつあったアヘンの輸入が禁止となりました。しかし、密輸入は止まらず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広がります。

 1840年に清朝のアヘンに対する厳しい対応に怒ったイギリスは、清朝との間でアヘン戦争を起こします。圧倒的軍事力の違いにより清は敗北します。1842年に両国は南京条約に調印し、イギリスは香港島を占領することになります。

 1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間でアロー戦争が起こります。最終的に北京条約で終結しました。この戦争はアヘン戦争に続いて起きたため、第二次アヘン戦争と呼ぶこともあります。

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 1900年、清朝のほぼ終り頃に義和団事件が勃発しました。イギリス・フランス・オーストリア・ロシア・日本・英領インド・アメリカの8ケ国に対して、義和団と呼ばれる宗教組織が宣戦布告した事件のことです。清ではアロー戦争以降、どんどんキリスト教が入って行き、清の国民は、キリスト教宣教師を排斥して行きました。清は、最初は義和団事件を鎮圧しようとしましたが、後に清も義和団の方について宣戦布告をしました。義和団事件の講和条約である北京議定書においては、清は多額の賠償金と軍隊駐留権を列強諸国に与えなければいけなくなり、清の滅亡を加速させました。この義和団事件によって、日本とロシアが対立して行き、日露戦争(1904~1905年)の原因になります。。

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 1911年から1912年にかけて、清では共和革命である辛亥革命が起りました。孫文の影響を受けた革命軍が、武昌と漢陽を武力制圧しました。清国は、革命軍の制圧に失敗し、15省が次々と独立を宣言しました。

 1912年、上海で中華民国の国父・政治家・革命家と呼ばれる孫文が中華民国大統領に選出され、清国は滅亡しました。この結果、アジアにおいて史上初の、共和制国家である中華民国が誕生しました。

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 1919年に中国に5.4運動が起こります。第一次世界大戦(1914年~18年)が終結し、パリ講和会議においては、日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると、学生達が、ヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進しました。北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる学生運動、大衆運動です。1919年5月4日に発生しましたので、この名で呼ばれます。

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 1937年7月に始まった日中戦争では、当初は華北から戦闘が始まり、その後、双方とも兵員を動員する中、ドイツ軍顧問を得ていた蒋介石は、国際都市上海にて日本軍をおびき寄せて殲滅する作戦を立てました。しかし、結果的には、中国軍は上海方面から首都南京方面へと壊走します。追撃する日本軍は、食糧などを途中の農村地域で略奪しながら進軍します。しかし、南京に向かうまでの行程で、農村部においては、日本軍による住民の殺害・強姦・強奪が発生するなどの軍紀の緩みがありました。これが南京大虐殺と呼ばれているものです。

 1949年4月には、共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧しました。1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃する内戦で相次いで国民政府に勝利をおさめます。この過程で、南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと逃避したりする国民政府関係者が多数出ました。その為、共産党は南京国民政府が崩壊壊滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言しました。なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は、蒋介石の指導の下で台湾に撤退し、引き続き現在に至るまで中華民国と名乗っています。冷戦を経て、現在中華民国を国家承認している国は30ケ国未満ですが、二つの「中国」政府が直面する事態は、台湾問題として東アジアの国際的政治問題となっています。

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 表は、中華人民共和国の歴代最高指導者の一覧を示したものです。

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 1949年より1976年まで、毛沢東が成立した中華人民共和国の代表となります。以降、死去するまで同国の最高指導者の地位にありました。毛沢東は、共産主義思想に忠実な教条的人物でした。1949年の建国後は「大躍進」と呼ばれる計画経済を、人民公社を軸に推し進めました。しかし、この政策は経済合理性を欠いていたため、成果が乏しく数千万人に及ぶ飢餓者を出したと言われています。


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 1960年に、路線転換に挑んだのが、国家主席となった劉少奇と、その下にいた鄧小平でした。人民公社方式を改め、農業などに個人経営の要素を取り入れました。これによって、中国経済は成長を始めました。しかし、あくまでも「思想」にこだわる毛沢東は、劉少奇らを「資本主義の道を歩むもの」として粛清しました。「そして、10年に及ぶ「文化大革命」が始まります。名目は、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動でした。実際は、劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が、自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための中国共産党内部での権力闘争でした。それを毛沢東がスチューデントパワーやベトナム戦争への反戦運動などに沸騰する世界を巧みに結び付けました。

 1970年代に入って、文革路線の修正を進めたのが周恩来首相でした。周恩来は、失脚し地方に追いやられていた鄧小平を北京に呼び戻し、1975年には、工業や農業分野など「4つの近代化」路線を打ち出して行きました。決定的な転機は、1976年に訪れます。1月に周恩来が、9月に毛沢東が相次いで死去しました。その後、鄧小平は一時的に失脚しましたが、間もなく復活し、毛沢東路線を主張する勢力との闘争に勝利して権力を掌握しました。鄧小平は文革の誤りを認めるとともに、中国経済に市場元気を取り入れる「改革開放路線」を打ち出しました。その結果、中国は今日世界第2の経済大国に成長しました。

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 2012年に胡錦濤が退任し、名実ともに習近平の時代に入ると、中国の外交姿勢に悪い意味で変化が現れたことを指摘する声が多くなりました。鄧小平は、経済発展を優先させるため、日本を含め諸外国との対話には低姿勢で臨むことをポリシーとし、それは鄧小平以降の各指導者に受け継がれて来たように見えます。ところが、習近平の時代に入り、中国は軍の大幅な軍備増強に成功したため、もう遠慮する必要性は無くなったと、指導部が判断し、尖閣諸島問題などで、高圧的な態度を見せるようになりました。ただし、アメリカとの摩擦はできるだけ回避しようとしています。

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 習近平体制が誕生したのはまさに民主化か革命かという議論のさなかで、共産党統治の脆弱性が顕著になり始めたときでした。ソ連の轍を踏まないよう警告を発する習体制は、21世紀半ばごろまでに総合的な国力と国際的影響力で世界の先頭に立つという壮大な目標を打ち出しました。「社会主義現代化強国」を目指し、新疆、香港や海洋などの主権問題を中心に国民国家建設が推進され、イデオロギー色の強いナショナリズムが政権の合法性に据えられました。

 習体制の最大の特徴は、毛沢東時代の政治運営方法と鄧小平時代の市場経済を同時に推進する点にあります。「頂層設計」が強調され、党委員会を通じて党がすべての組織と社会を統制するという毛沢東時代の政治体制が復活しました。同時に「市場を志向した改革」も目指しています。自由貿易試験区に多くの自由を与え、金融市場の規制緩和などを積極的に進めています。環太平洋経済連携協定(TPP11)への参加可能性を示唆した2020年11月の習氏の発言以降、労働や環境条項、知的財産権保護などの導入を検討しています。

 米中対立が激しさを増すなか、2020年10月に開催された第19期中央委員会第5回全体会議で内需拡大を主軸としつつ、対外開放を目指す方針が示されました。イノベーション(技術革新)を促し、毛沢東時代から続く国内市場の分割状態から脱し、国内統一市場の創出により内需を喚起するというものです。また自由貿易協定(FTA)、越境電子商取引(EC)、金融協力などを通じて、中国を中心に据えたグローバル・サプライチェーン(供給網)を、アジアと「一帯一路」沿線国との間に構築する戦略も打ち出されました。

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 今回は、正しい歴史認識を得ると言う目的で、中国の清王朝以降の歴史のおさらいをしました。皆さんの認識と合っていましたか。



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