インフレについて考える(その9)…インフレ目標3.0%への道
インフレ目標値2%の言葉が良く新聞紙上に登場します。今回は、この2%がどのようにして決まったのか、また各国でこの2%実現のためにどのような金融政策を採っているのかを調べてみました。
1. インフレ率目標2%の意味
なぜインフレ2%を目標にするのかということですが、これはジョン・メイナード・ケインズによる「ジョンブル(イギリス人のこと)は、大抵のことは我慢するが、2%の利子率には我慢できない」という有名な言葉によるものです。これの意味は、2%の利子率を下回るような債券は、売れ行きが極端に悪くなり、流動性の罠が発生するということです。これは、投資家の貨幣に対する取引需要よりも債券の名目金利が下回ってしまうためと考えられます。2%は利子率水準が低過ぎ、反対に債券価格が高過ぎることを意味するからです。人々は、債券価格の下落(金利の上昇)を予想して貨幣で資産を保有するようになり、貨幣供給が増しても貨幣保有が増すだけで、資金は債券購入に回らず、市場利子率はそれ以上低下しようとはしなくなるためです。
2. 米国がインフレ目標を2%とする意味合い
2022年8月16日、米ワイオミング州のリゾート地ジャクソンホールで開いた経済シンポジウムにおいて、パウエル米連邦準備理事会(FRB)議長の演説は、例年以上に注目を集めました。「今最も重視しているのはインフレ率を目標の2%に引き下げることだ」と「2%インフレ目標」の貫徹宣言で始まりました。FRBが2%のインフレ目標を採用したのは今から10年前、2012年のことです。その後を追うように日銀は2013年に2%の物価安定目標を導入しました。「2%未満でその近辺」を目標にしていた欧州中央銀行(ECB)が「2%」にしたのは2021年7月です。
インフレ目標政策は1990年代からニュージーランド、カナダ、スウェーデンなど一部先進国で導入が始まりました。当時はインフレ時の物価抑制を狙った政策でした。それが日米欧主要国に広がった2010年代以降は「デフレ予防」の政策に変質しました。FRBでインフレ目標導入を推進したのは当時のバーナンキ議長とイエレン副議長(現米財務長官)の経済学者コンビでした。その背景には「日本化」への恐れがあったようです。政策金利引き上げに上限がないインフレ対策に対し、デフレ対応はいったんなってしまうと、量的金融緩和など非伝統的政策に頼らざるを得なくなります。デフレ脱却に苦闘する日銀のようになりたくないという恐怖心が、FRBを2%のインフレ目標設定に突き動かしたのです。バーナンキ氏の後継のイエレン議長も雇用拡大を重視し景気過熱や物価高を一時的に容認する「高圧経済」を唱え、その後任のパウエル氏もその路線を引き継ぎました。
コロナ禍が広がった20年8月にFRBは金融政策の新戦略として「平均物価目標」打ち出しました。インフレ率が目標から下振れした場合は、それを埋め合わせるため上振れを容認し平均で2%になるよう運営する方法です。デフレ予防のインフレ目標の進化形です。結局、パウエル議長は昨年まで米国の物価上昇は一時的として金融引き締めに動かず、今の高インフレを招いたと批判を浴びることになります。
パウエル氏のジャクソンホール演説は、物価抑制を目指すインフレ目標への転換を明確にしました。インフレ目標政策は、物価抑制を重視した1990年代の黎明期(1.0%)、2010年代以降のデフレ予防策としての普及期(2.0%)を経て、再びインフレ退治に主眼を置く「インフレ目標3.0%」への道を歩み出したようです。その証拠にパウエル氏は演説で2人の元FRB議長に言及しました。1人は70年代末から80年代前半にインフレファイターとして名をはせたボルカー氏、もう1人はその後任のグリーンスパン氏です。パウエル氏は「平均的な物価予想が、企業や家計の金融上の意思決定に重大な影響を及ぼさないほど十分に小さく緩やかであること」というグリーンスパン氏の物価安定の定義を紹介して演説を締めくくりました。
インフレは足元で加速しており、1980年代以降で記録的な水準に跳ね上がっています。当時はポール・ボルカー連邦準備制度理事会(FRB)議長が急激な物価上昇を押さえ込みましたが、当初は経済に著しい打撃が及びました。しかし、その後数十年にわたり、債券と株式の上昇局面が繰り返されるパターンが始まりました。
2. 物価目標を3%に変更するという議論の是非
2022年9月時点で米国のインフレが深刻です。消費者物価の前年比伸び率は6月の9.1%がピークであったと考えてもよいのですが、中身をみると家賃やサービス価格はいまだ上昇基調にあり、これらは一度上がると下がりにくいといえます。米連邦準備理事会(FRB)のインフレとの戦いはここからが本番と思われます。
賃金の上昇率が5%台で高止まっているのも大きな問題です。3%程度まで減速しないと、FRBの2%物価目標と整合しません。そこまで賃金の上昇率を抑えるには、1100万人台という歴史的な高水準にある求人数が、3~4割は減らないといけません。それには経済活動の縮小、すなわち景気後退が避けられません。さらに失業率は3%台半ばと歴史的な低水準にあります。失業率がどの程度上昇しなければインフレがおさまらないのかについては、意見が分かれています。サマーズ元財務長官は、7.5%の失業率を2年間受け入れる必要があるといいます。FRBは、4%程度までの上昇で済むと言っています。サマーズ氏は悲観的すぎ、逆にFRBは楽観的にすぎるようです。
2022年終盤から2023年にかけての米国は、失業率が思いの他上昇する一方、インフレ率が2%に向けて順調に低下しない、という展開になりそうです。そのとき、FRBはどうするのでしょうか。インフレ率が4~5%だとさすがに高すぎますが、3%程度なら無理に抑えず、雇用優先に舵を切る可能性が高そうです。FRBの責務は「物価の安定」と「雇用の最大化」であり、最終的には両者のバランスを求められるから、3%をインフレ目標値にすることは妥当と言えます。加えて、インフレ率や名目金利はある程度ゼロから離れている方がよい、したがって物価目標は2%よりも3~4%の方がよい、という学説が以前からあります。FRBが2%物価目標を正式に変更する可能性は低いが、運用として3%に近いインフレを容認し続ける可能性は、大いにあると思えます。
FRBは難しい立場にあります。悪性インフレの流れを断ち切るには、景気を犠牲にしてでも引き締めをやり遂げる姿勢が必要です。一方で経済の混乱を全く気にせずにインフレ率を2%に戻す覚悟まではありません。金融危機の可能性が高まるとするなら、なおさらです。米連邦公開市場委員会(FOMC)メンバーにはインフレ率が高止まりするとの見方があります。2%目標の対象である個人消費支出(PCE)物価指数の上昇率予想は、23年の中央値で2.8%ですが、全19人中7人が3%超を見込んでいます。しかも17人が予想の上振れリスクの方が大きいとみています。
「いっそ3%のインフレ率を甘受すべきだ」との声も出ています。ファーマン元米大統領経済諮問委員会(CEA)委員長は米紙への寄稿で、25年末までにインフレ率を2%に下げるとすれば、失業率は23~24年の平均で6.5%程度にまで跳ね上がると分析しました。そのうえで「インフレ率を3%で安定させることは、おそらく経済にとって2%よりも健全だ」と対応を期待しました。経済協力開発機構(OECD)加盟国の設備投資などを示す総固定資本形成はすでにコロナ禍前を回復したものの、国内総生産(GDP)に占める比率が低下に転じつつあり、引き締めの動向次第で失速するおそれは消えていません。
FRBが3%インフレを甘受すれば、深刻な不況が投資の芽を摘むリスクは和らぐかもしれません。ただし2%目標の「ゴールポスト」を自分の都合で動かしたと思われたら、人々のインフレ心理は揺らぎ、かえって物価が上振れするリスクを抱かえます。目標は変えず、時間をかけて2%近辺に軟着陸させるシナリオなら検討の余地はありそうです。
米政府との協調も重要です。パウエルFRB議長は6月の討論会で、政府の金融政策頼みを問われ「需要管理にばかり焦点が当たり、持続的な成長実現への取り組みが十分でない」と漏らしました。肝心なのは「ヒトへの投資や、経済の余力を高める生産性の高いモノへの投資」だということです。政府がインフレ対策の名の下に需要拡大へ動けばインフレに拍車をかけ、中銀の必要以上の利上げで将来の深刻な景気悪化に陥りかねません。
結局、問題は「コロナ後」の経済を展望した大きな見取り図を政策当局が共有できるかどうかに行き着きます。中銀に丸投げして需要の圧縮に追い込むだけで解決しないのは確かなようですが、皆さんどう思われますか。