インフレについて考える(その10)…日銀のインフレ期待の持続課題

 日本経済は長らく低成長・低インフレに悩まされてきました。1990年代初めのバブル崩壊以降、潜在成長率は伸び悩み、持続的な需要不足によりインフレ率は趨勢的に低下しました。これを背景に、低金利環境も長きにわたり続いています。

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 この低成長・低インフレからの脱却を目指し、黒田東彦総裁の下で日銀は異次元の金融緩和を実施してきました。2013年4月、今までに類を見ない量的・質的金融緩和政策に始まり、2016年に導入した長短金利操作付き量的・質的金融緩和政策は、2018年4月の再任を経て現在も継続しています。

 さらにコロナ危機を受け金融緩和の枠組みを維持しつつ、新型コロナウィルス感染症対応金融支援特別オペレーション(コロナオペ)や貸出促進付利制度を導入し、中小企業の資金繰りを支えています。このように日銀は実体経済に積極的に働きかけてきました。

 この日銀黒田総裁の金融政策については、肯定する立場、否定する立場がありますので、この両方の見解をそれぞれ紹介したいと思います。

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 まずは、柴本昌彦 神戸大学准教授によるコメントです。これは日経新聞2022.9.14日に掲載されました。

 異次元緩和政策の効果について、経済活動とインフレ率の関係をみてみます。一般的に需要拡大で経済活動が活発になると、物価に上昇圧力がかかると予想されます。そのため国内総生産(GDP)ギャップ(実際のGDPと潜在GDPの差)とインフレ率との間には安定的に正の相関関係があります。GDPギャップが大きいということは、失業率が高いことと同じですのでフィリップス曲線で表せます。

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 図のように1982~1996年のフィリップス曲線①に対し、低成長・低インフレ期(1997~2013年、黒田総裁就任前まで)のフィリップス曲線②は下方にシフトしました。黒田日銀は異次元緩和政策によりこの曲線を再度上方にシフトさせようとしました。実際、異次元緩和政策を導入した2013年前半以降のGDPギャップとインフレ率は、フィリップ曲線②の上方にシフトしています。つまり非伝統的な手法による量的・質的金融緩和に効果があったといえます。しかし2014年後半、安定したインフレ期待に懸念が生じ、2016年にはGDPギャップとインフレ率が異次元緩和政策前まで戻ってしまいます。

 そこで日銀は量的緩和から長短金利操作(YCC)に軸足を移すとともに、フォワードガイダンス(先行き指針)を強化しました。その結果、GDPギャップとインフレ率は再び上昇しました。この点でも異次元緩和政策はインフレ期待上昇への効果があったといえます。 なお、後にコロナ禍の影響によりGDPギャップは大きく低下しますが、GDPギャップとインフレ率の相関関係から中長期的なインフレ期待が低下しているとは言い切れません。

 日銀は異次元緩和でインフレ期待上昇に成功し、多岐にわたる非伝統的な政策手段で日本経済に働きかけられることを示しました。評価すべきは、政策手段が大胆かつ異次元ということです。具体的には、まず量的・質的緩和政策で、非伝統的政策といわれる長期国債・上場投資信託(ETF)・不動産投資信託(REIT)などのリスク資産を大規模に購入しました。低金利下で金利操作による需要創出が困難な中で、インフレ期待を上昇させるほどの働きかけをして、金融市場の緩和環境を生み出しました。

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 次にコロナ禍ではコロナオペや貸出促進付利制度を導入しました。オペのカテゴリー別残高に応じた付利、つまり事実上補助金交付というインセンティブ(誘因)を民間金融機関に与えて企業向け融資を促進し、企業活動を下支えしています。さらには気候変動対策に投融資する民間金融機関への支援制度の創設を発表しました。

 このように異次元緩和の背景には、低成長・低インフレ脱却のため、中央銀行である日銀自らが経済成長の促進を積極的に働きかけて、持続的な需要を創出しようとしたことがあるとみられます。

 以上が黒田日銀総裁の金融政策を支持する側のコメントです。

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 一方、同支社大学の北坂真一教授は、日銀はインフレにも目配りをすべきとの観点からコメントを出していますので、次にこれを紹介します。

 米国や欧州は2021年から高インフレに直面し、2022年に入り米連邦準備理事会(FRB)は3会合連続で政策金利を上げ、欧州中央銀行(ECB)も11年ぶりの利上げを予告しています。日本でも食品やガソリン価格、電気料金などが上昇し、インフレの兆しが見えます。

 日銀は2%の物価安定目標に向けて2つの政策を掲げています。1つは、金融政策の大枠としてのオーバーシュート型コミットメントであり、もう1つは、日々の金融調節に関わる超短期金利操作(イールドカーブ・コントロール=YCC)です。前者はマネタリーベース(資金供給量)という金融の量、後者は国債の売買で決まる金利を操作目標としています。

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 日銀はマネタリーベースの拡大を、消費者物価上昇率(生鮮食品を除く総合=コアCPI)が安定的に2%を超える(オーバーシュート)まで継続すると約束(コミットメント)しています。コアCPIはエネルギー価格の影響を強く受けますが、これとは別に日銀は生鮮食品・エネルギーを除く総合(コアコアCPI)も参考にしており、こちらはマクロ受給ギャップや賃金上昇率を反映しやすいといえます。

 コアCPIの伸び率は2ケ月連続で2.1%と目標値に達しましたが、コアコアCPIは2ケ月連続で0.8%にとどまります。日銀は2022年6月の金融政策決定会合で、物価の目標値達成は原油価格上昇による一時的なものでデフレ脱却は不十分と判断し、大規模緩和を継続しています。

 原油や穀物など海外発の物価高への抜本的対応は、代替エネルギーや他からの供給を増やすことですが、急な対応は難しいといえます。値上げがエネルギーや食品などに限られる現状では、的を絞った支援が適切です。物価高の対策で消費税減税のような大規模な財政支出を行えば、需要が刺激されて値上げが広がり状況は悪化すると考えられます。

 特に原油価格の上昇は、輸送コストや電気料金などを通じて物価全体に大きな影響を及ぼします。長期にわたる超金融緩和で国内にマネーはあふれており、企業物価も2021年から高い伸びを示しています。このような状況から日本もインフレになる下地は十分あるといえます。

 賃金よりも雇用の継続を重視するため生産性が伸び悩む日本では、物価だけが上昇して実質賃金が低迷する可能性が高いといえます。実際、1992年以降、名目賃金上昇率が2%を超えた年は一度もありません(図参照)。2022年に入りコロナ禍からの回復で名目賃金は上昇傾向にありますが、インフレ率がそれを上回り、足元で実質賃金は低下しています。名目賃金が伸びなければ。国民にはむしろデフレが好ましくみえます。

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 デフレ脱却を最優先するリフレ政策だけで生産性が伸びなければ、名目賃金はインフレ率と同じ程度伸びるだけで実質賃金は伸びません。実質賃金上昇には生産性向上につながる労働市場を含む構造改革が急務です。改革が進まず成長率も賃金上昇率低い日本は、低率でもインフレに弱いといえます。物価目標2%超のオーバーシュートは、名目賃金が伸びない限り国民の不満を高めるので、容認できても半年から1年までだと考えられます。

 物価上昇は一時的で長続きはしないという見方もあります。だが世界に目を向けると短期間でウクライナ危機の解決は難しく、中長期的に米中対立の激化や反グローバル化による世界の分断が懸念されます。グローバル化によるコスト削減や生産効率化は世界的なデフレの要因だったことから、歴史の巻き戻しはインフレ要因になります。脱炭素のような環境問題への対応もコスト要因に加わります。コストプッシュの物価上昇は中長期的に続く可能性が高く、日本でもインフレへの警戒が必要だと考えられます。

 一方、日々の金融調節に関わるYCCは一層難しい局面にあるといえます。YCCは短期金利をマイナスとし、10年物国債金利の上限を0.25%に制御しています。米金利上昇で日本の長期金利に上昇圧力がかかり、上限金利を維持するため日銀は4月以降大量の国債を購入しています。

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 当初のYCCは、2016年のマイナス金利導入時に日銀の意図と異なり、長期金利が大きく低下し年金・保険運用への悪影響を懸念して導入されたものです。その役割は10年物国債金利を0%の上下一定の範囲に維持することでした。これによりその後の国債購入額も減らせました。

 だが今のYCCは上昇する金利を抑え込む役割に変貌しています。以前のようにデフレが深刻であれば長期金利を抑えて実質金利を下げ、資産効果を通じてマクロ経済を支える政策が正当化されました。だが既に政府も認めるようなデフレではない状態となり、企業収益も総じて好調です。これ以上の長期金利の抑制は、金融市場の資金配分機能を低下させ、不採算企業の延命や財政規律の喪失を招き、日本経済への悪影響が大きいと考えます。

 さらに日銀の金利抑制で海外との金利差が拡大し、急激な円安を招くという副作用も表れました。円安のマクロ効果は様々で一概に悪いとは言えませんが、急激な円安は経済の不確実性を高めます。今後もYCCを標的にして投機的に国債や円が売られて金融市場が不安定になる可能性を考えると、YCCの継続はプラスの効果よりもマイナスが大きいといえます。

 そもそもデフレ脱却の過程では、インフレ期待が高まり長期金利は上昇します。世界的なインフレ懸念が波及して長期金利が上昇するのは、日銀の理想ではありませんがデフレ脱却の1つのパターンです。日銀は緩やかな金利上昇を容認し、YCCを解除することが望ましいと考えます。

 今後の金融政策は、① 10年物国債金利の上限撤廃と目標金利の短期化、② YCC解除、③ マイナス金利からゼロ金利への復帰、④ これと並行する量的緩和縮小、という流れが考えられます。YCCを解除してもゼロ金利を維持すれば、期待インフレ率は上昇しており、中立金利との比較で金融緩和は維持されます。FRBのようなインフレ抑制の金利引き上げはその先で、金融引き締めまで長い行程がります。

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 金融緩和の修正に向けて次の2点が懸念されます。

 第1は財政との関係です。政府はコロナ対応のため大規模な経済対策を実行し、国債発行残高は累増の一途をたどります。YCC解除で長期金利が上昇すれば、国債の利払い費が増え財政を圧迫します。他方で、インフレは価格上昇を通じて取引金額を増やすので事実上の増税となり、税収増を望む財政当局には好都合です。巨額の財政赤字を抱かえる政府には低金利と高インフレが望ましく、日銀の物価安定政策とは相いれません。デフレ下の政府と日銀の協調は容易でしたが、インフレになると日銀の独立性が試されます。

 第2は日銀の環境変化への対応力です。日本の政策当局は既定方針にとらわれ、しばしば変化への対応が遅れます。日銀がインフレ目標を採用し、超金融緩和に移行したときも長い時間を要しました。今は反対に超金融緩和に固執しているようにみえます。世界はデフレ環境からインフレ環境へ転換しつつあります。物価の安定を債務とする日銀はインフレにも敏感になるべきだと考えます。

 日銀の金融緩和は脱デフレに大きく貢献しましたが、今後は環境変化に即した迅速な対応と独立性を堅持する新たな姿勢が求められます。

 以上、黒田日銀総裁の金融政策に対する肯定コメントと否定コメントを紹介しましたが、皆さんはどちらを選びますか。



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