為替問題と貿易事業(その1)…戦後の為替レート変化の大きな流れ

 戦後の為替レートの動きを大きな眼で見ると、三つの時期に大別できます。

第一期…1ドルが360円の固定相場だった時期(1949年~1971年)
第二期…長期的に円がドルに対して高くなっていった時代(1971年~1995年)
第三期…為替相場に大きな方向感がなく、横ばい圏で推移している時代(1995年~2018年)

の三つです。

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第一期…1ドルが360円の固定相場だった時期(1949年~1971年)

 1971年までは、360円の固定相場でした。当初は、焼け野原の日本にとって厳しいレートだったのでしょうが、必死に政府が輸出産業を育て、必需品以外の輸入を抑制することで、何とか資源等を輸入するための外貨を確保していた、という状況でした。

 復興期から高度成長期にかけて、立派な工場が多数建ち、輸出産業が育ってくると、ようやく日本経済の外貨繰りが楽になりました。もっとも、これを米国から見ると「日本の繊維産業などが育ってきたため、米国の繊維産業などの脅威となっていきます。対策が必要だ」ということになり、1971年にニクソン・ショックが発生します。1ドルが360円から308円に変更され(円が切り上げられた)たのです。

 ニクソン・ショックの詳細は次の様なものです。近代の通貨は金と交換できることが信用の裏付けとなっていました。戦後の国際通貨体制も金とドルとの交換を米国がいつでも保証することで支えられました。ところが、1960~70年代にかけてベトナム戦争による軍事費拡大などで米国の財政が悪化し、 金が国外へ流出しました。金不足とインフレに直面した米国のニクソン大統領が金とドルの交換停止を発表して世界を驚かせたわけです。

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 ニクソン・ショック後の協議を経て、ドルを基軸通貨とする変動相場制の時代が始まりました。金との交換がなくなると国が発行する通貨の量を調整しやすくなるため、金融政策の自由度は増します。一方、国をまたいで資本を移動しやすくなったことで、急激な資本の流出・流入による通貨危機や物価変動も起きやすくなりました。

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第二期…長期的に円がドルに対して高くなっていった時代(1971年~1995年)

 しかし、それでも日本の輸出は好調を維持したので、1973年には固定相場制が廃止され、変動相場制の時代となります。「輸出が増えると輸出企業がドルを売るため、政府が円相場を操作しなくても、ドル安円高が自然に進む」という時代になったのです。

 1985年のプラザ合意を受けて、急激な円高が進みましたが、円高でも輸出が減らず、「日本製品は高品質だから、高価格でも買いたい」と世界中に言われたことが日本人の自信を深め、「日本経済は世界一だ」といったユーフォリアを生みました。ユーフォリアとは熱狂的陶酔感のことです。

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 プラザ合意は1985年9月2日にニューヨークのプラザホテルで行われました。プラザホテルで行われたからプラザ合意という名前となりました。アメリカは先進国の中でも特に経済大国だった西ドイツ・イギリス・フランスそして日本と会議を行い、自由貿易を守るために各国がそれぞれドル安を目指していくことで合意しました。

 この時の日本の代表はのちに首相となる竹下登でした。彼はアメリカの依頼を受け入れて貿易の利益よりもアメリカとの友好関係を選びました。そしてこの合意の翌日に日本の為替市場は1ドル235円から215円に、翌年には150円相当になるなど合意前よりも85円相当円高ドル安となりました。

 また、円高を受けて大幅な金融緩和が行われました。これもプラザ合意がバブルの遠因であった1つの経路となりました。大幅な円高になったため、輸出産業への打撃が景気を悪化させると考えた日銀は、金融を緩和しました。その後、予想に反して景気は回復・拡大しましたが、金融は緩和されたままでした。輸入品が安く買えるようになり、インフレにならなかったので、金融を引き締める必要がなかったからです。

 金融が緩和されていれば、借金をして不動産を購入することが容易になります。安い金利で借りられますし、銀行も積極的に融資してくれるからです。とくに、当時は銀行の積極的な融資姿勢がバブル拡大に「貢献」したと言われています。

 1995年までは、行ったり来たりしながらも、大きな流れとしては、円高方向でした。「米国のインフレ率が日本よりも高いので、為替レートが一定で推移すると、次第に日本製品の競争力が増し、貿易収支が黒字になり、輸出企業が持ち帰ったドルを売ることで円高になる」ということが続いたからです。ところが、1995年に1ドル80円まで円高が進むと、そこで止まります。その後は、1ドル80円と120円の間で(時々はみ出しますが)行ったり来たりするようになったのです。

第三期…為替相場に大きな方向感がなく、横ばい圏で推移している時代(1995年~現在)

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 2000年に米国でITバブルが崩壊して景気が悪化するとFRB(米国の中央銀行)は金融を緩和しました。金融緩和は住宅投資を刺激し、今度は住宅バブルが発生しました。バブル期に銀行が融資姿勢を緩めるのは世界共通のようで、住宅価格が上昇を続けることを前提に、米国の銀行は信用力の低い借り手にも融資をしました。これを「サブプライム・ローン」と呼びます。

 米国の銀行は、住宅ローンを貸すと「証券化」という取引を行うことがあります。取引内容は複雑ですが、ここでは「借り手が書いた借用書を売却する」と理解します。サブプライム・ローンの借用証書を買いあさったのが、大手証券会社のリーマン・ブラザーズでした。借り手の信用力が低い分だけ金利が高く設定されているので、大儲けを狙ったのです。

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 2008年に住宅バブルが崩壊しましたので、サブプライム・ローンの多くが焦げ付き、リーマン・ブラザーズは倒産しました。当時は他にも、多くの金融機関がサブプライム・ローンの借用証書を大量に抱かえていましたが、具体的に誰がどれだけ抱かえているのかは公表されていなかったので、金融機関は相互に疑心暗鬼になりました。ここから先の展開は、日本のバブル崩壊時と非常に似ています。金融機関相互の資金貸借が止まり、銀行が自己資本比率規制によって貸し渋りをし、政府が銀行の増資を引き受けようとして中小企業の反対に遭う、という展開です。

 リーマンショックにより、日本の貿易収支は概ねゼロ(月により赤字)になりました。欧米等の景気悪化で輸出が激減したことに加え、大幅な円高によって日本製品の輸出競争力が低下したことも痛手でした。

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 その後、輸出は多少回復しましたが、今度は輸入が増えてしまいました。2011年の東日本大震災による原発事故を契機として日本中の原発が停止したため、そのぶんを火力発電で補わねばならず、火力発電の燃料の輸入が著しく増えたためです。その後、しばらくは輸入燃料などにより、貿易収支の赤字が続きました。


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 アベノミクスによる円安ドル高で、貿易収支が改善するかと思われましたが、円安が輸出数量を増やす効果、輸入数量を減らす効果が表れるのに時間がかかりました。貿易収支が年ベースで黒字になったのは、2016年のことです。






 円安ドル高なのに輸出数量がなかなか増えなかった一因は、円高時に計画された現地生産の工場が、円安になってから完成し生産を開始したことになどにあるようです。また、円高時に無理をして輸出していた企業は、円安になっても値下げをせず、採算の回復を優先したので輸出数量が増えなかった、ということもあるようです。皆さんはどう思われますか。



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