為替問題と貿易事業(その5)…円相場の大幅変動と賃金格差の問題

画像の説明

 ディビッド・ワインスタイン コロンビア大学教授が2022年11月30日の日経新聞に投稿した円安と賃金格差について取り上げた内容を紹介します。

 円相場の大幅変動は特に目新しい現象ではありません。1998年に起きた日本の金融危機のさなかには1ドル=147円台まで進みましたが、2011年には80円を超える円高となりました。とはいえ次第に円安基調が強まっており、22年に入りその傾向が加速してきています。

画像の説明

 円相場のこうした大幅変動の背景には2つの重要な要因があります。長期的にみると、日米の生産性の伸びに差が出て両国の相対賃金に大幅な格差が生じたこと、そしてこうした状況が米国は何でも日本より高いという感覚を助長していることです。

 加えて2つの短期的要因で日米格差はここ数か月で一段と拡大しました。1つはウクライナでの戦争、もう1つは日銀と米連邦準備理事会(FRB)の金融政策の違いです。2022年に入ってからFRBは大幅利上げを継続する一方で、日銀は政策金利をゼロ近傍に据え置いています。政策に違いが出たのは、ウクライナでの戦争により食料・エネルギー価格が全世界で同じように急騰しても、日米が直面するインフレが全く違うからです。

画像の説明

 食料・エネルギー価格の世界的な高騰に関しては、中央銀行が供給ショックの緩和にできることはほとんどありません。日本のような先進国は、食料・エネルギーの輸入代金を財やサービスの輸出で賄わなければならなりません。よって食料・エネルギー価格が上昇すると、日本は輸入を減らすか、輸入量を維持するために生産と輸出を増やす必要があります。

 だが、日本は失業率が極めて低く、労働者の供給が潤沢でないため、短期間で生産量を大幅に増やすことは困難です。となれば、日本の世帯が輸入品の消費を減らして調整するほかかありません。輸入の減少は輸入価格の上昇、それに伴う実質所得の低下、または賃金の低下といった要因の組み合わせで起きえます。しかし多くの場合、調整は価格の側から行われません。現実には企業にとって名目賃金の引き下げは極めて難しいからです。その結果、輸入価格の上昇の一部は消費者に転嫁され、インフレ要因となります。実際、食料品・エネルギーを除いたコアインフレ率は、この1年で日本では1.5%、米国では6.3%も上昇しました。

画像の説明

 日銀が利上げをせずFRBが積極的に利上げをしてきた理由のひとつは、米国の顕著に高いインフレ率で説明がつきます。FRBは、資本コストを引き上げれば世帯は新たな住宅購入を断念し、企業は設備投資を手控えて、総需要を減らせると期待しているのです。だがこれは理由の一部でしかありません。よく知られる通り、インフレ動向を左右する重要な役割を果たすのは賃金圧力です。米国では2018~21年に年3%のペースで賃金が上昇していましたが、今や年5%になっています。つまり米企業は食料・エネルギーのコスト上昇だけでなく、労働コストの上昇にも直面しているわけです。この状況は一段のインフレ加速を招く恐れがあります。

画像の説明

 何より懸念されるのは、インフレが加速すれば労働者は賃上げを要求し、賃金上昇が物価をさらに押し上げ、そうなれば労働者はより大幅な賃上げを要求するという事態です。FRBは「賃金・物価スパイラル」をハイペースの利上げで防ぐべく奮闘しているわけですが、こうした金融政策は景気後退を引き起こしかねません。

 日本ではインフレ圧力が米国ほど深刻ではないようです。コアインフレ率が大幅に低いことと、賃金がほとんど上昇していないことが原因とみられます。8月の日本の賃金水準(現金給与総額)は前年同月比1.7%しか上昇しておらず、賃金・物価スパイラルの恐れは極めて小さいものです。食料・エネルギー価格の世界的な高騰に起因するインフレは日銀にはコントロールできないこと、賃金上昇率が年2%前後なら心配無用なことからすれば、日本の現在の状況は悪くないと言えます。

 FRBと日銀は自国が置かれた状況に適切に対応したわけですが、それぞれの政策は円ドル相場に重大な影響を与えずにはおきません。米国の方が金利が高いため外国資本が流入し、ドル需要を押し上げてドル高になります。一方、金利の低い日本にとっては外国投資の魅力が増し、日本人投資家が円建て資産を売り外貨建て資産を買うため円安となります。

 日米の金利差が円ドル相場に及ぼす影響を下図に示します。10年物国債の日米金利差は21年には約1%でしたが、現在は4%に近づいています。金利差の拡大が足元の円安の主因になったと考えられ、金融政策の違いが為替相場の動向に大きな影響を与えることがわかります。しかし、長い目でみれば、日本の生産性の伸びの停滞は、日本は外国人にとって安く外国は日本人にとって高いという状況を生み出して来ました。こうした現象が起きる一因は、為替レートは貿易可能な財の価格を均衡化しますが、サービスの価格は均衡化しないことにあります。原理は単純です。ある国で貿易財の価格が大幅に低かったら、安い国で買い付けて高い国で売ることができます。裁定取引により安い国の需要と価格は上昇し、高い国の価格は下落し、最終的に両国の価格は等しくなります。しかしサービス価格は貿易財のように扱うことはできません。

画像の説明

画像の説明

 この「一物一価の法則」は単なる理論上の概念ではなく、現実にもそうなっています。例えば新発売のデジタルカメラ、富士フィルム「X-T5」には2022年11月7日時点では、米国のウェブサイトで1700ドル(同日の為替換算では約24万9千円)の価格がつく一方、日本での価格は25万3千円でした。カメラをはじめとする貿易財では一物一価の法則がおおむね当てはまります。

画像の説明

 対照的に東京ではビッグマックの価格がニューヨークのおよそ半分です。マクドナルドが東京でこれほど低い価格に設定できるのは、東京でハンバーガーを買ってニューヨークで転売することが不可能だからです。ニューヨークではなぜそんなに高いのか、大きな原因は労働コストと地価の差にあります。例えば経済協力開発機構(OECD)のデータによれば、現行レートで換算すると米国の平均年間賃金は日本の2倍以上です。米国のマクドナルドの店員が日本より高い賃金をもらっているのは、日本の店員より生産性が高いわけではありません。高い賃金を払わないと、他の高賃金の仕事に店員が移ってしまうからです。

 換言すれば、日本では数十年にわたる生産性の停滞が賃金に跳ね返っているのです。この半世紀に創業した日本の優良企業を挙げよと言われたら、多くの米国人は窮します。一方、テスラ、グーグル、アマゾン・ドット・コム、フェイスブック(現メタ)、アップル、マイクロソフトといった生産性の極めて高い米企業はいずれも50年以内の創業で、世界に名をとどろかせています。

 総じて米企業の多くは賃金を引き上げているため、ハンバーガーを作るといった労働集約的な仕事の賃金水準も上昇しています。以上のように日本の相対的に低い賃金と安いハンバーカーという結果を招いたのは生産性の伸び悩みです。この問題は、日本が世界の舞台でイノベーション(技術革新)を創出する能力を再び発揮しない限り解決できません。皆さんはどう思われますか。



コーディネーター's BLOG 目次