地政学リスクの高まり(その1)…ロシアという国の歴史を知る

国家の継承

 ロシアは862年のノヴゴロド建設から国家を継承しています。
・ キエフ大公国(882年~1240年)
・ モスクワ大公国(1263年~1547年)
・ ロシア・ツァーリ国(1547年~1721年)
・ ロシア帝国(1721年~1917年)
・ ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国
           ~ソヴィエト社会主義共和国連邦(1917年~1991年)
・ ロシア連邦(1991年~現在)

 以下のロシアの歴史については、1917年のロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国の樹立についてとその後名称を変えて1991年まで続いたソヴィエト社会主義共和国連合の成り立ちを中心に紹介して行きます。

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第1次世界大戦(1914年)とロシア革命

 1914年にサラエヴォ事件が発生し、第1次世界大戦が勃発すると、イギリス・フランスと共に三国協商を形成していたロシア帝国は連合国側に参戦しました。序盤にドイツへ侵攻しますが、ロシア軍の動員力の遅さを見越したドイツ軍の知将ルーデンドルフにより仕掛けられたタンネンベルグの戦いで、ロシア軍は完敗しました。ニコライ二世は前線を視察して、兵士の士気を維持しようと努めましたが、宮廷では怪僧グレゴリー・ラスプーチンが治世を牛耳るなど政治の腐敗が続き、長引く戦争による疲弊によって、国民は政府に不満を募らせてゆきました。

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2月革命

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 1917年の3月8日「国際婦人デー」において、首都ペトログラードのヴィボルク地区の婦人たちが「パンをよこせ」というデモを展開したことから、ロシア全土でストライキが発生しました。「戦争反対」、「専制君主制打倒」の声が高まりゼネストが起きました。ニコライ二世は首都での革命的騒動に対して軍を派遣し、事態の鎮静を図りましたが、それが悉く失敗に終わり、回復が不可能であることがわかると、皇帝位を退くことを決定しました。ここに304年続いたロマノフ朝は終焉しました。

10月革命

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 1917年2月革命以降発足した体制は、臨時政府と労働者と兵士からなる「ソビエト」が並び立つ2重政府体制でした。この年の4月にスウェーデンからペトログラードに戻ったウラジミール・レーニンは「ソビエト権力の樹立」を目標とする「四月テーゼ」を発表しました。これがボリシェヴィキの方針となります。しかし、多数派のメンシェヴィキと社会革命党は臨時政府との妥協と連立を目標とし、ボリシェヴィキを弾圧するようになりました。


 この年1917年7月、レーニンはフィンランド亡命を余儀なくされました。しかし、9月には再度反乱が起き、メンシェヴィキの求心力が低下し、ボリシェヴィキが勢力を盛り返してきました。レーニンも帰国し、23日には武装蜂起を高らかに主張しました。11月6日に第2回「ソビエト大会」が開かれ、ソビエト政権の樹立が宣言されました。ちなみに、ボリシェヴィキは、レーニンが率いた党で、少数の革命家が労働者、農民を率いるべきで、民主主義を実現しさらに社会主義国家を目指すというものです。一方、メンシェヴィキは、大衆がなるべく政党に参加し、ブルジョア階級と妥協しつつ、民主主義さらには資本主義社会を目指そうというものです。

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ソビエト連邦

 1922年、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、ウクライナ社会主義共和国、白ロシア・ソビエト社会主義共和国、ザカフヤース社会主義共和国連邦が結成されました。ソビエト連邦は一般の労働者・農民にとっては、支配者がロマノフ朝の皇帝からボリシェヴィキ(ソ連共産党)に代っただけで、政治や言論の自由についてはロマノフ朝以上に抑圧された非民主的な一党独裁国家でした。

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 レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは、政敵レフ・トロッキーの国外追放を皮切りに、反対派を徹底的に排除して一国社会主義路線を確立しました。スターリンは1936年にソビエト社会主義共和国連邦憲法いわゆるスターリン憲法を制定しました。この憲法はソ連型社会主義の原則を成文化したもので、生産手段の公有・生存権の保持・民族の平等・18歳以上の男女普通選挙などが規定された典型的に社会主義憲法でした。スターリンは1936年から1938年をピークとする大粛清を行い、処刑や強制収容所での過酷な労働などによって数万人以上の人が粛清されました。

第二次世界大戦

 ソ連は第2次世界大戦においては枢軸国であるナチス・ドイツと独不可侵条約を、大日本帝国と日ソ中立条約を結んでいましたが、ドイツが1941年に侵略を開始すると、一転連合国側について参戦することになりました。

 日ソ中立条約を結んでいた日本に対しては、ヤルタ会談における密約(ヤルタ協定)に基づき行動していましたが、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄して宣戦布告し、千島列島や南樺太、満州に侵攻しました。この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも拡大する目的から日本軍からの降伏による停戦さえ無視し侵攻を続けました。

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冷 戦

 第2次世界大戦後、アメリカ合衆国との対立が激化し、ソ連は東ヨーロッパの各国(ポーランド、東ドイツ、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニア)にソ連に従属する各国の共産党(共産主義政党)が独裁支配する、社会主義国を建設し、これらを衛星国家としました。

 1962年にはキューバ危機が起き、米ソ競争の危機が高まりましたが、これを回避し、翌年にはフルシチョフ-ケネディ大統領の間で部分的核実験停止条約が結ばれました。フルシチョフ失脚後のコスイギン;ブレジネフの時代には中ソ紛争が勃発、さらにはアフガニスタン侵攻などの事件が起きました。

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 ロナルドレーガン大統領は、ソ連を「悪の帝国」と批判し、ソ連と軍拡競争を展開しました。ソ連はアメリカなどNATO加盟国との冷戦や計画経済の行き詰まりにより次第に疲弊し、東欧革命による東欧諸国の民主化やソ連からの離反も始まりました。

ソビエト連邦の崩壊

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 こうした中、1985年に書記長となったミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、ソビエト連邦が解体され消滅しました。このソビエト連邦の崩壊により前身のボリシェヴィキ時代を含めると1917年以来74年間続いたソ連共産党の一党独裁による社会主義体制が名実共に崩壊しました。

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 ポリス・エリツィンは1990年にロシア共和国大統領になり、ソビエト連邦の崩壊後も引き続いてロシア連邦の大統領を務めました。1991年にソビエト連邦が崩壊し、ロシア連邦が成立すると、エリツィンの方針に伴い社会主義から資本主義へと国家体制の移行が進められました。その過程で莫大な富を手にしたオリガルヒと呼ばれる新興組織が多数誕生しました。しかし、資本主義のもとでハイパーインフレーションを引き起こし、国民は貧困と物不足にあえぎましだ。エリツィン政権二期目では、オリガルヒの発言力が増し、政治腐敗が蔓延していきました。1998年にはロシア財政危機が発生し、国内は混乱しました。


第一次プーチン政権

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 1999年末日、エリツィンは電撃的に大統領辞任を表明、大統領代行にウラジミール・プーチンが就任しました。プーチンは、「強いロシア」を標榜し中央集権化および法による独裁を強靭に進めました。また国家資産を半ば私物にしていたオルガルヒの制圧に乗り出し、ロシアの国益にかなう企業のみと国有化ないし政府の人間を企業の役員に加えることで国のコントロール下に置きました。こうした手法は強権的と欧米から批判される一方でロシア国民からは広く支持されました。また、プーチンの時代、ロシアの持つ豊富な天然資源が功を奏し、年々高い経済成長を遂げ、エリツィン時代に比べ貧困も半減しました。

メドベージェフ政権

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 2008年3月の大統領選挙で大勝し、正式に大統領となったドミトリー・メドベージェフはプーチン路線の継承を表明しました。またメドベージェフ大統領はプーチンを首相に指名し、メドベージェフ大統領-プーチン首相による双頭体制となりました。



第二次プーチン政権

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 2012年に与党「統一ロシア」のプーチンは他候補に大差をつけて勝利し、再び大統領の座に就きました。プーチンは2014年3月に新たな策を打ち出しました。ウクライナの政変に伴いクリミア自治共和国に軍事介入し、同国を支配下に治めました。この強硬姿勢によって、長期政権に飽きて低下気味だったロシア国内におけるプーチン大統領の支持率は上昇しました。しかし、一連の騒動により、プーチン政権に対する国内の支持上昇とは裏腹に、欧米諸国との関係がかつてないほどに悪化しました。結果として欧米諸国による経済的制裁や、クリミア併合に伴う莫大なコスト負担などでロシアの不安要因となり、短期的には良い効果を上げても、長い目で見れば逆にロシアでの現体制の安泰には繋がらないという見方も出ています。

 ロシアは歴史的に見ても侵略が好きな国に見えますが、皆さんはどう思われますか。



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