地政学リスクの高まり(その15)…イスラエルとパレスチナの紛争の歴史

 昔から、地中海の一番、東の沿岸にある地域のことを「パレスチナ」と呼んでいました。南にエジプト、東にヨルダンがあって、北にはシリアやレバノンがある場所です。このパレスチナの地にあるエルサレムには、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、それぞれの聖地があり、宗教上とても重要な地域です。いつしか、この土地の中で〝将来、パレスチナ人の国家になりたい地域”(東エルサレム・ヨルダン川西岸・ガザ地区)を総じて、パレスチナと呼んでいました。イスラエル、パレスチナがそれぞれ国として共存するのが理想でしたが、イスラエルの建国を発端に対立しているのが現在のパレスチナ問題です。

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パレスチナ問題の根源となる「2つの悲劇」

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 1つは、ユダヤ人が2000年の長い歴史の中で世界に離散し、迫害を受けてきた悲劇です。やっとの思いで悲願の国(=イスラエル)をつくり、それを死守していきたい、二度と自分たちが迫害されるような歴史に戻りたくない。そんな、私たちには想像もつかないぐらいの強い思いをユダヤ人はもっています。

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 もう1つは、パレスチナの地に根を下ろしていたパレスチナ人70万人が、イスラエルの建国で故郷を追われたという、パレスチナ人の悲劇です。離散したユダヤ人が戻って国をつくったことで、今度はパレスチナ人が離散することになりました。いまパレスチナ人が住んでいるのは、ヨルダン川西岸とガザ地区というところです。国にはなれないまま、イスラエルの占領下におかれているのが現状です。周辺の国にも多くが難民として暮らしています。ものすごく人口密度が高くて、高い塀やフェンスで囲まれ、人やモノの厳しい封鎖が続いていることから「天井のない監獄」とも呼ばれています。イスラエルと武力衝突があると、空爆を受けて亡くなる人もたくさんでますし、地域一帯が瓦礫になって、住宅や道路、水道などのインフラも破壊されます。国連が学校や病院を運営したり、食料を無料で配ったりしていますが、我々が当たり前に思っているような最低限の生活さえできない状況です。

ヨルダン川西岸のユダヤ人入植地

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 一方、ヨルダン川西岸は完全な自由はないものの、今はイスラエルから物資やお金が入り、許可があればイスラエル側に働きに出ることもできます。ヨルダン川西岸の主要都市ラマラには、最近では、ショッピングモールもあります。ガザ地区とは、だいぶ様子が違います。ただ、ヨルダン川西岸には入植地という問題があります。入植地とは、パレスチナは、イスラエルの占領下にあると言いましたが、そこにユダヤ人が住み着いてイスラエルの土地として既成事実化したのが入植地です。ヨルダン川西岸を中心に約130か所あり、40万人のユダヤ人入植者が住んでいるといわれています。パレスチナ人の住宅やオリーブ畑をなぎ倒して土地を収用することもしばしばありました。

 パレスチナ問題は、局所的な場所で、2つの悲劇がぶつかり合っているように見えますが、実はイスラエルの背後にはアメリカが、パレスチナにはアラブ・イスラム世界があります。世界の大きな対立の最前線みたいになってしまっていて、未だに解決が難しい状況が続いているのです。

イスラエル建国の歴史

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 パレスチナの地には、ユダヤ教を信じるユダヤ人の王国がありました。しかし、この国は2000年ほど前にローマ帝国に滅ぼされてしまいます。このとき、ユダヤ人は、パレスチナを追い出されて世界に散り散りになります。これを「ディアスポラ」と言います。その後パレスチナの土地の支配者は、歴史に応じて変わっていきますが、アラブ人、今で言うパレスチナ人が住み続けることになりました。

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 散り散りになったユダヤ人は、ヨーロッパや中東、アフリカで暮らすことになりました。ただ、特にヨーロッパでは差別や迫害に苦しむことになります。その理由は、ユダヤ教の国で新しい教えを広めたのがイエス・キリストです。彼はユダヤ教の聖職者たちと対立し、十字架にかけられてしまいました。だから、のちにヨーロッパでキリスト教が広がると、ユダヤ人はキリストを処刑した人たちとみなされ、差別や迫害の対象になってしまうのです。




 ユダヤ人はそれぞれの土地で、普通の人がなかなか就かないような仕事に就かざるを得ませんでした。その代表例が金融業です。中世ヨーロッパのキリスト教国の多くでは、お金を貸して利息をとることがいやしいこととされていたからです。しかし、やがて金融業の需要が増すにつれ、その土地土地で富を握るようになります。銀行帝国を形成したロスチャイルド家の歴史は、貧しいユダヤ人が莫大な資産を形成し、遂には貴族の地位まで登り詰める成功物語りです。しかも、現代にまでその影響力があると言われています

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 また、昔から自分たちの宗教を守るのに熱心で、子どもの教育にも力を入れてきました。識字率が高く、知識階級の中でも影響力を持つようになります。教育レベルが高くて、富を握っていて、他からの妬みもありました。いろいろなことが重なって、疫病などの災難が起きるとユダヤ人を迫害する、という歴史がずっと繰り返されてました。

 迫害が続く中、19世紀にユダヤ人たちの中で、かつて王国があったパレスチナの地に戻ろう、国をつくろうという運動が起こります。これを「シオニズム運動」と言います。でも、すでにパレスチナ人が住んでいました。簡単には戻れないような…それが現実化してくるのが1914年の第1次世界大戦の時です。イギリスは「ユダヤ人の国家建設を支持します」と約束して、ユダヤ系の財閥、ロスチャイルドから資金援助を引き出そうという狙いを持っていました。ユダヤ人の国をつくろうという動きを利用した訳です。

 一方イギリスは、当時パレスチナを含むアラブ地域を支配していたオスマン帝国を切り崩すため、アラブ人にも「オスマン帝国と戦えば、独立国家をつくろう」と約束します。さらに盟友のフランスとは、この地域を山分けする密約も結んでいました。歴史上、悪名高い「三枚舌外交」と呼ばれるものです。ユダヤ人にも、アラブ人にも国を認めると言って、その後の混乱を招く元凶になりました。結局、オスマン帝国の領土は、イギリスとフランスが山分けすることになりました。

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 ユダヤ人は「だまされた」と思いつつ、パレスチナの地に移り住む動きを強めていきます。そして、最後の決め手となったのが、1933年ナチス・ドイツによるホロコーストです。600万人のユダヤ人が殺害されました。ユダヤ人というだけで、虐殺されました。ユダヤ人の大量虐殺が行われたところがアウシュビッツ強制収容所です。もう二度とユダヤ人が迫害されることはあってはならないと、悲願の国をつくる思いが強まりました。ナチスの犠牲者になったユダヤ人への同情もあり、1947年には「パレスチナの地に国をつくらせてあげましょう」という国連決議が採択されました。

パレスチナ分割決議

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 1947年に国連総会でパレスチナ分割決議が採択されました。パレスチナの地を、ユダヤ人とアラブ人の2国に分けたうえでエルサレムを国際管理下に置くと言う内容です。当時、この土地のユダヤ人が占める割合は、全人口の3分の1でしたが、56%の土地が与えられることになりました。そして翌年には、ユダヤ人がイスラエルの建国を宣言します。2000年越しの思いでユダヤ人がつくった国が、イスラエルだったわけです。しかし、パレスチナ側からすると、広大な土地を取られてしまった訳ですから、「勝手に国をつくられるのはおかしい」と反発しました。建国の翌日(1948年5月15日)には周辺のアラブ諸国がイスラエルに攻め込みました。これが第1次中東戦争です。

イスラエルが「被害者」から「加害者」へ

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 イスラエルは、建国と同時だったので最初は苦戦しましたが、国連の分割決議で認められた土地は死守しました。その状態で国を少しずつ創って行きますが、パレスチナは相変わらず国にならない状態でした。周辺のアラブ諸国は、イスラエルに対する憎しみを募らせながら緊張状態が続くわけです。中でも決定的だったのが、1967年の第3次中東戦争です。第3次中東戦争でイスラエルは、パレスチナ人が住む場所とされてきた東エルサレムを含むヨルダン川西岸(ヨルダン領)とガザ地区(エジプト領)を占領して、国連の統治下にあったエルサレムの併合を一方的に宣言しました。イスラエルは、戦争前まで認められていた休戦ラインを越えて、国際法上、認められていないところまで占領したわけです。この時イスラエルは事実上「パレスチナ」と呼ばれていた土地のすべてを占領することになりました。パレスチナ人は住み続けていますが、イスラエルが占領政策を続けていくことになるのです。

進軍するイスラエル軍部隊

 入植地の建設も、これ以降加速します。占領地での入植活動は、国際法に違反する行為です。こうしたことから、それまで国際的には「被害者」とみられていたイスラエル、ユダヤ人が占領者となり、ある意味「加害者」としてみられるようになります。結局25年間で4回も戦争が繰り返されるのですが、毎度イスラエルが軍事的に圧倒します

 イスラエルが建国直後の状態で、アラブ諸国の連合軍に対抗できた理由は、アメリカが武器の援助をしていたことがあります。ユダヤ人の強い結束や統率、身を守ろうという執念はもちろんですが、天才的な軍人が何人も現れます。後のラビン首相とか、シャロン首相とかです。軍事的にものすごく優秀な人たちが、電撃作戦や奇襲作戦を駆使して数で勝るアラブの連合軍を撃退して行きます。

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 例えばエジプト軍がイスラエルに侵攻していた時に、イスラエル軍の戦車部隊を率いる指揮官だったのちのシャロン首相が、エジプト軍の補給路を断ちます。それでエジプト軍が一気に総崩れになって、エルサレムを目前にして敗退しました。ほかにも、いろいろ伝説的な展開がいくつかあって勝利を収めて行きます。こういったことも「土地を死守しなければならない」というナショナリズムをますます煽り立てることになって行きました。

パレスチナの蜂起とテロ、世界に募る危機感

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 戦争に負け続けたアラブ側、パレスチナ側はその後、このままでは耐えられないと「インティファーダ」と呼ばれる住民の抵抗運動が広がっていきます。住民がイスラエル軍に石を投げて抵抗するのです。この運動がどんどん大きくなっていきました。一方、パレスチナの外では、アラファト議長率いるPLO=パレスチナ解放機構という組織が各地でイスラエルに対する武装闘争を展開します。1972年ドイツのミュンヘンオリンピックで、イスラエル選手が襲われるテロもありました。





 長く続いた対立を経て、共存への道を模索することになるイスラエルとパレスチナですが、残念ながら現在の状況に戻ってしまいました。皆さんはどう思われますか。



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