コーヒーブレイク…三重大学四日市フロントで過ごした10年間

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 2008年7月に三重大学への就職が決まった時には、奇跡が起こったかと思いました。最初、三重県産業支援センターでの公募があり申込みました。実は、これは、私はどうも当て馬的役割だった様です。面接は受けましたが、見事に落ちました。ところが、私の履歴書がどうしたわけか、面接担当者の机の上に転がっていたそうです。これを訪問していた三重大学・三重TLOの園城寺代表が目に留め、三重大学に来ないかと誘って頂き、三重大学・社会連携研究センター・産学連携コーディネーターとなりました。

 一方、北伊勢上野信用金庫の方は、その年、コラボ産学官という産学連携活動をスタートさせ、人材を必要としていました。たまたま、妻が中日新聞記事に目を留め、直接電話してくれ、柴田理事長にまで繋いでくれました。これで、三重大学と北伊勢上野信用金庫の2カ所での産学連携コーディネーター業務が開始されました。

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 三重大学四日市フロントは、駅前の「しばさん三重」ビルの4階に事務所を置き、四日市市を含む三重県北勢地域との社会連携を実践する現場として、これまで種々活動をしてきました。現在四日市市と三重大学には相互友好協力協定が締結されており、その下で四日市フロントがその窓口としての機能を、運営費補助金の支給を受けて請け負ってきました。

 図に平成21年度の四日市との連携状況について示します。四日市市とは、4つの部局との間で連携を進めてきました。具体的には、四日市消防署、商工農水部工業振興課、文化国際課、四日市教育委員会の4つです。

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 四日市市は、三重県の北勢部に位置する人口約31万人の県下最大都市であり、日本発のコンビナートが1959年からスタートし現在に至っています。コンビナートの夜景は当時100万ドルの夜景と言われましたが、四日市公害という試練も乗り越えてきました。最近は、高度部材産業地域へと少しずつ産業シフトを行っています。この様な町四日市市への四日市フロントの開設は、三重大学が独立行政法人化して、国立大学法人三重大学になる半年前の平成2003年10月であり、今年で約7年が経過しました。

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 当時の四日市フロントのメンバー構成は、加藤征三特命学長補佐を顧問とし、社会連携研究センター所属の伊藤、相可コーディネーターおよび吉川事務職員。工学部所属の横森コーディネーター、生物資源所属の佐藤コーディネーターの計6名で構成されています。このように、各部局のコーディネーターが一堂に会して情報交換する唯一の場所となっています。場合によっては、複数のコーディネーターが連携してものごとにあたることもあります。

 これまで、四日市フロントは「社会貢献ビジネス」を目指して活動を行ってきました。すなわち、四日市フロントが多様な社会貢献をすることにより、外部資金を受け入れ、三重大学の資金調達の一拠点となることです。このことは、国立大学法人三重大学に求められている重要な施策の1つであり、四日市市を含む三重県北勢地域の文化、産業、教育の振興に役立つと考えています。

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四日市フロントの誕生秘話

 四日市フロントの発足は、三重大学が独立行政法人化して、国立大学法人三重大学になる半年前の2003年10月でした。当時、大学事務局…橋本三重大学創造開発研究センター事務長、四日市フロントリーダー…相可元三重銀総研専務、㈱三重TLO…円城寺社長、の3名が産学連携活動を現場で推進しようとの思いで、核拠点を発足させたと聞いています。

 2008年に私も含め3人の新人コーディネーターが配属になりました。伊藤幸生…四日市フロント所属、横森万…工学部所属、佐藤…生物資源学部所属。

 2008年7月から2010年3月までの1年半の間は、三重大学内の創発センターの専用室で、補助金提案の支援を目的に滞在しました。この時期は、中小企業との共同研究に力を入れていました。

 2010年4月に四日市フロントのリーダーになると、今度は四日市市工業振興課を相手の産学連携コーディネーター業務を始めました。私としては、工業振興課に限定されず、政策推進部と接点を持ち、四日市市全体と付き合いたいと考えていました。

 図に示すような期間、BCP策定セミナー、高齢者施設訪問、機能性トマト、四日市公害と環境未来館、多文化共生紙芝居事業といったものに携わってきました。

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不思議な縁を感じる後藤副学長の登場

 2016年1月の下旬、本部の加藤貴也助教から、「3月末で四日市フロントの運営を産学連携コーディネーターによる運営から教員による運営に切り替えます。ついては、現在進めている事業を植村研究員に引き継いでほしい」との申し入れがありました。正直なところ、この人事には非常に不満を感じました。それは、進めてきた事業は長年にわたって育ててきたもので、これまで何の関りもなかった人間に引き渡せば済むとはとても考えられなかったからです。

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 2016年3月9日には本部西村副学長以下トップによる最終の説明があり、我々が申し入れていた引継ぎの期間を延ばして欲しいという要求は全く受け入れてもらえませんでした。申し渡しが終わった後、がっかりして学内を歩いていると、以前から親しくしていた人文学部の後藤人文学部長に偶然遭遇しました。私がとても鎮痛な表情をしていたのを見て、「どうしたのか」と心配して下さり、それから約1時間ほど私の話を聞いてくれました。

 後藤人文学部長はこれから1年間三重大学の副学長をやることになったという巡り合わせでしたので、思い切って助けて下さいとお願いしました。幸いなことに、四日市フロントで進めている事業のほとんどが人文学部関連のものであったことから、私の抱かえている案件を、しいては私自身を人文学部で引き受けてやるとまで言ってくれました。以降、私もすべてを後藤人文学部長に託すことにしました。 

 その後は、私の所属していた社会連携研究センターと人文学部の戦いとなりました。2016年3月22日に開催された四日市市との引継ぎも後藤副学長の指示ということで、出席しませんでした。社会連携研究センターは、数度に亘って人文学部の方に談判をしに来たそうですが、すべて後藤人文学部長の方で撥ねつけてもらったそうです。

 四日市フロントの産学連携コーディネーターを退任した後も、北伊勢上野信用金庫の産学連携コーディネーターは継続していたこともあり、最終的には、人文学部へ託された事業は、三重大学人文学部と北伊勢上野信用金庫の間で取り交わされた相互連携協力協定の中で運営されていくことになりました。

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 三重大学社会連携研究センター四日市フロントでの10年間は、四日市との関わりの中で私自身一生懸命やってきました。最後は本部の単なる思いつきの考えの中で風前の灯まで追いやられましたが、最後の最後に救世主が登場し、その後これらの事業は5年近く続くことになります。本当に奇跡的なことがおこりましたが、皆さんどう思われますか。



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